ファイル12 : 猪木の「パク・ソンナン事件」の謎

  1999/5/11
2007/4/29改訂

 

 不世出のレスラーアントニオ猪木のレスラー人生を彩る武勇伝は数多いが、その中でも「ぺールワン腕折り事件」、「グレート・アントニオ リンチ事件」と並んで陰惨な事件として語り継がれているのが、昭和51年の韓国遠征での「パク・ソンナン事件」だろう。猪木曰く「目ん玉を刳り抜いちゃいました。」というあの事件である。(これは全くの誇張。目を刳り貫くなどありえない。実際は目に指を突っ込んだ。)流智美氏あたりも書いておられるのでご存知の方も多かろう。しかしこの「目玉刳り抜き事件」を書いた書物は多いが、それぞれ状況や日付が微妙に異なるのである。そこで今回はこの事件の真相を究明しようというわけである。

 この新日本プロレス一行の韓国遠征が行われたのは昭和51年10月。猪木を始め坂口、星野、永源あたりが参加していたようだ。問題の猪木とパク・ソンナンの試合は9日のタイキュー、10日のソウル(NWF戦)で行われたということまでははっきりしている。

 

   
マウントをとりながらも消極的な朴   朴を鉄柱に叩き付ける猪木   流血し戦意喪失の朴

 

 この事件について詳しく書いた書物が2冊ある。ひとつは新間寿氏著の「さらばアントニオ猪木」、もうひとつがミスター高橋著「プロレス、至近距離の真実」である。まず事件がどちらの試合で行われたということだが、新間氏は9日のタイキュー大会、高橋氏は10日のソウル奨忠体育館で起こったと記述している。どちらかの記憶違いという事になるが、幸い10日の奨忠体育館での試合は「キラー猪木VOL.3」(ポニーキャニオン)にてビデオ化されている。この試合の解説は坂口がつとめているのだが、山崎アナウンサーの「大邱(テグ)での試合はどんな物でしたか?」との問いに坂口は「まぁ前哨戦という事もあって、お互い手の内を隠してたんですが、パクさんのパンチが猪木さんの顔面に当たりましてね。で、猪木さんが俄然エキサイトして場外乱闘で強烈な殴り合いになりまして、パクさんがリングに上がってこれなくなって、リングアウト負けという事になりました。パクさんの左目に痣が残ってますね・・・。」このビデオを見る限り結末は朴が戦意喪失に近いリングアウト負けに終わっているが、猪木は両氏が著書で記したような過激な攻撃を行なってはいない。事件は9日の大邱(テグ)大会で行なわれたと結論づけて間違いなさそうだ。

 現在(1999年)わかっている情報を総合すると以下のようになる・・・。

 当時のパク・ソンナンは、全日本プロに助っ人として参戦したあとロスでアメリカス王者になるなど脂の乗りきった時期、片や猪木もアリとの世紀の対決を実現させ日本の猪木から「世界の猪木」になり意気揚々としていた。ミスター高橋が書いたようにこのマッチメイク自体が間違いだった。凱旋帰国でどうしても勝ちたい朴、格下のパクに花を持たせる訳には行かない猪木・・・。実は試合前にパクサイドの人間が「出来る事ならこの試合を引き分けにしてもらえないか?」との打診があったという。しかし相手が悪い。猪木は「そんなことでアントニオ猪木の名を汚せていいのか!」と一言の元に拒否する。

 この試合は韓国では生中継される事になっていた。新間氏が猪木とパクの間を右往左往してい間に中継は始まっていた。ブラウン管には40分に渡って誰もいないリングが映し出されていた。結局、星野が韓国側に八百長拒否を通達。控え室で猪木は「荒れ狂っていた」という。こうなると猪木は手をつけられない。堪りかねて控え室を飛び出しリングに駆け上がる猪木。パクもリングに登場。すると韓国側の選手がリングサイドに大挙押し寄せ口々に叫んだ「セメント!セメント!」。TV中継が始まって一時間後の事だった。両者は坂口が解説席で語ったように、パンチの応酬。猪木がパクを捕まえ腕固め。「ギブアップ」パクが呟く。ブレイクする猪木。勝利のポーズを作るが、パクは「ギブアップしていない!」と試合続行を要求する。「ぶち殺してやる!」猪木はパクの顔面を締め上げる。容赦のない攻撃に朴の歯が唇を突き破って飛び出す。それでも猪木は容赦なく場外にパクを叩き付ける。「これ以上やったら反則負けをとりますよ!」と、猪木を制する高橋。「そんな事してみろ、テメェもぶっ殺すぞ!」完全に切れている猪木。パクがリングにがって上きたところを猪木が背後から指先を右目に突っ込んだ!場外に逃げ出すパク。「上ってきがてみろ!ぶち殺してやる!」両者仁王立ちでにらみ合ったままカウント20。控え室に戻るとプロモーターのキム・ドーマンが飛び込んできた。「なんだあの試合は!おまえはそれでもスポーツマンか!」猪木がやり返す。「お前はそれでもプロモーターか! 俺と正々堂々と戦う選手を連れてこい!」この日はこれで収まった・・・。

 さらなる問題が翌日のソウル大会で起こった。この日は本番の選手権試合。パクは前日の事もあってほとんど戦意を喪失している。ある程度プロレスの試合は成立したが、またもや場外の鉄柱攻撃一発でリングアウト負け。日本でも録画中継されたこの試合は表彰される猪木と共に場外で殺気立つ観客の姿も映し出している。前日に続き期待の星であるパク・ソンナンを徹底的に痛めつけた猪木に対する憎悪の目・・・。観客が暴れ出す!控え室の内側からバリケードをはる日本勢。韓国側レスラーや観客が控え室に押し寄せる。ようやく軍隊が出動するが、会場の周りには興奮したファンが取り囲んでいる。危険を察知した猪木は新間氏と共に空港へ向かってすでに帰国の途にあった!置き去りにされたミスター高橋と山崎アナは戒厳令のソウルの街を駆けずり回り、命からがら韓国を脱出したのであった。

 以上が昭和51年10月に韓国で起こった事件の全貌である。この事件はそもそも高橋氏が指摘するようにマッチメイクの失敗である。猪木は韓国ではヒールといえ、パクの凱旋試合の相手では荷が重いし、八百長など受け入れるはずもない。星野、永源あたりでお茶を濁せば良かったのである。「アリと戦った猪木と引き分けた」というのを売りにしようとする根性に、プロレスラーとしてのパク・ソンナンの限界を筆者は見るのである。最後にこの事件の後おパク・ソンは程なく死去したということが定説となっているが、これは猪木神話を盛り上げる為の誇張で、朴は心機一転し、1980年頃までアメリカ本土で活躍した。1979年にはフロリダでキラー・カーンとアジアン・キラー・コンビをば組んでトップヒールとして暴れていたのである。しかし最後にひと花咲かせたパートナーがかつて自分の目を「刳り抜いた」猪木の弟子というのは何という皮肉な事であろうか!

 

参考文献
「さらばアントニオ猪木」(新間寿著・ベストブック)
「プロレス、至近距離の真実」(ミスター高橋著・講談社)

 

 2007/4/29追記

 以上は1999年5月に、当時入手可能だった資料を分析したレポートである。そして8年を経て2007年3月に出版された「1976年のアントニオ猪木」(柳澤健著)によって、この事件の全体像が見えてきたので、加筆しておく。

 事件が起こったのは、筆者の推測どおり9日のタイキュー大会。結果は猪木のリングアウトがちではなく、ノーコンテスト。猪木はこの日の夜にキム・ドーマンの仲介で、猪木はパクにセメントを仕掛けたことを謝罪。しかし、10日のソウル大会でも試合前に「トラブル」が発生し、選手が入場せず40分にわたって誰もいないリングが映し出されていた。(1999年版のレポートではリングが映し出されていたのは9日の試合としたが、これは間違いのようである) そして暴動が起こったのも、10日のソウル大会後で間違いないようである。

 ただ、新間氏が書いたセメント試合に原因となる「パク側からの八百長申し込み」に関しては、柳澤氏の取材により違う事実が浮かび上がってきている。この事件にはさらに深い闇があるのだ! そして10日のソウル大会前で起こった「トラブル」とは何か? それは研究室のプロレスに対するスタンスを考えると、書かないほうがよいだろうと判断する。ぜひ、「1976年のアントニオ猪木」を手に取り確かめていただきたい。

 そして、キム・ドーマン氏が柳澤氏に語ったことが、すべて真実であるならば、1999年版の「『アリと戦った猪木と引き分けた』というのを売りにしようとする根性に、プロレスラーとしてのパク・ソンナンの限界を筆者は見るのである。」という一文は、事実に反する全く的外れの記述であると言うことのみ書いて、追記レポートを締めくくりたい。

参考文献
「1976年のアントニオ猪木」(柳澤健著・文芸春秋)

 

◆1976年のアントニオ猪木

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