ファイル32 プロレス因縁物語:ディファジオと藤波を結ぶキーワード

  2003.5.10

 

 
これが幻の強豪 ディファジオ   アイ・ネバー・ギブ・アップを宣言した藤波

 

 「ディファジオ・メモリアル」・・・藤波が在位中、WWWFジュニアヘビー級選手権はそう呼ばれていた。このディファジオとはWWWF世界ジュニアヘビー級選手権の初代王者、ジョニー・ディファジオのことである。今回はこの二人を結ぶあるキーワードを皆さんにご紹介する。

 昭和45年6月号のプロレス&ボクシングに掲載されている「世界のトップレスラー紹介」という読み物にジョニー・ディファジオはエドワード・カーペンティアと並んで紹介されている。ここで記事からなぞの多いディファジオの経歴を要約、抜粋する。

「・・・NWA世界ジュニアヘビー級チャンピオン、ダニー・ホッジは有名だが、その対抗勢力WWWFでもジュニア・ヘビー級の世界チャンピオンを認定している。それを4年間独占しているのはジョニー・ディファジオだ。地元のピッツバーグやボストンへ行くとブルーノ・サンマルチノをしのぐ人気者だ。ディファジオはピッツバーグにイタリア移民を両親として生まれ、9歳から重量挙げに熱を燃やし13歳からYMCAでレスリングを学び、同時にボディビル・コンテスト荒らしとして名を馳せ、17歳と19歳のときにミスター・ピッツバーグの栄冠に輝いている。

 1961年3月にトーツ・モントに会いプロレス入り。ブルーノ・サンマルチノの付け人としてレスリングの手ほどきを受けた。1961年3月ピッツバーグでジプシー・ジョー・ゴンザレスを破ってデビューした。この男は変わっており、プロレスラーとしての職業のほかにピッツバーグ市内のジョーンズ・アンド・ラグリーン・カンパニーという鉄鋼会社に籍をおき、あまりプロレスの試合に熱を入れていないことだ。だが、東部屈指の人気者であり、1966年1月にフランス人のポール・ドゴールをMSGで破って世界ジュニア・ヘビー級タイトルを獲得、以後タイトル戦に無敗の記録を作っている。必殺技はローリング・クラッチ・ホールドの変形でディファジオ・クレイドルというもので、その電撃的スピードはオコーナーやカーペンティアに勝るとも劣らないといわれている。

 177センチ103キロという小柄だが、闘志は旺盛で1967年ボストン・ガーデンでジョニー・バレンタインと対戦、バレンタインのエルボー・ドロップにダウン、右足をデスロックで骨折させられたが、なおも食い下がって骨折させられたままファイトし場外リングアウトで引き分けたが、足は複雑骨折で全治7週間の重傷だった。

 宿命のライバル、ジョニー・パワーズと今年の2月にトロントで対戦、場外でパワーズのパワーズ・ロックの犠牲になったがギブ・アップせずついに足首を負傷、しかし結果は引き分けでディファジオは「絶対にギブアップしない男」をそのガッツを絶賛された。」

 以上が、ディファジオの紹介記事の要約である。WWWFエリア以外で知名度が低かったのは、やはりアルバイト・レスラーだったのが原因だったのだろうか?しかし写真で見る限り小型サンマルチノのような体躯は立派なものである。

 さて、この文章にあるキーワードが登場する。「絶対にギブ・アップしない」というフレーズである。この言葉はどこかで聞いた覚えがないだろうか?そう、藤波が昭和53年の凱旋帰国第一戦で、マスクド・カナディアンをドラゴン・スープレックスでKOしたあとに発した「アイ・ネバー・ギブ・アップ!」である。この言葉は当時のアメリカ大統領ジミー・カーターのモットーで、当時アメリカで流行語となっていたものを藤波が拝借したものである。しかし、その7年前にディファジオが「絶対にギブアップしない男」を呼ばれていたことを藤波は知っていたのだろうか?ふたりの王者を結ぶキーワード・・・偶然とはいえ、興味深い因縁話である。