カール・ゴッチ 追悼グラフ

 

初来日は昭和36年の第3回ワールド大リーグ戦

 

昭和41年の来日時には
G馬場と対戦。

  しかしインター戦前にヒザを負傷。
馬場とのシングル戦は幻に。

 

昭和43年からは日本プロレスのコーチに。

 

昭和46年に国際プロレスに登場。
ロビンソンと名勝負を繰り広げた。

  NYに進出しレネ・グレイとのコンビで
WWWFタッグ選手権を獲得。

 

新日本プロレス旗揚げ後は猪木に協力。

 

新日本プロレスではテーズとコンビ結成。

  前田が独立後はUWFに協力。

 

 「プロレスの神様」と呼ばれたカール・ゴッチが亡くなった。ゴッチほどファンによって評価の分かれるレスラーはいないだろう。私が調べた限り、彼を「プロレスの神様」と初めに呼んだのは、評論家の鈴木庄一氏のようである。アメリカではプロモーターの意向に沿わないよう注意人物ということで、冷や飯を食わされていたようだが、日本では日本プロレスがコーチとして招聘、国際プロレス、新日本プロレスでも「超大物」の扱いを受け、ファンにも「プロレスの神様」として迎え入れられたゴッチ。

 ゴッチイズムという言葉があり、それは新日本プロレスの専売特許のように言われたが、実際には国際プロレスのレスラーもゴッチの指導を受けているし、短期間ながら馬場もゴッチの指導を受けている。ゴッチの教えを実践的に、また戦略的に最大限に有効に活用したのが猪木だったというだけのことで、ゴッチイズムは昭和のプロレス団体には多少の差はあるにせよ受け継がれていたといえよう。

 昨年だったか、坂口親子がアメリカにプロレスのルーツをたどる旅に出る番組があったが、ゴッチ邸を訪問した坂口憲二に真剣にトレーニング法を指導したゴッチ。それを「相変わらずだなぁ」と、ロケバスの中で苦笑していた坂口征二。坂口の言葉にゴッチの気質が凝縮されている。常にどうすれば強くなれるか、それだけ考えていた男・・・それがゴッチではなかったか?

 ゴッチの死は、テースの死と同じくプロレス界において大きな損失となろう。ゴッチ、テーズの魂がプロレス界から消えてしまうことがないように祈るしかない。

2007/8/5記す