特別編 幻の日本人レスラー キラー・シクマ!

  2003.6.4

 

5月の終わり、KAという女性からメールをいただいた。

はじめまして。ホームページを見てメールさせていただきます。
質問があります。日本人全レスラー名鑑についてですが昭和のレスラーのみということでしょうか?
私の祖父は戦前のレスラーなのですが載っていません。
ハワイ・アメリカで活躍していましたリングネームはキラー・シクマ (志熊俊一) 山口県出身 身長182cm
昔の新聞に日本人初の重量級レスラーと載っていました。
ちなみに 力道山が引退した祖父に会いにきたことがあるそうです。(祖母談)
日本人全レスラーであるならば 是非祖父ものせて頂きたいです。

といった内容である。「キラー・シクマ」・・・恥ずかしながらはじめて聞く名前であった。

私は早速、手持ちの資料を紐解いてみた。しかし力道山以前にアメリカで活躍した日本レスラーに関しては、ソラキチ・マツダ、コンデ・コマ、マティ・マツダ、ラバーメン樋上、キモン工藤、北畑義高、プロフェッサー・ヘリー(手代木禎二)・・・といった名前しか出てこない。キラー・シクマに関する記事は全くなかった。

そこで私はとあるシンジケート(笑)に情報提供を依頼したのである。すると早速多くの情報が・・・。
まずは海外での熱戦譜から抜粋。

1934年10月1日 ホノルル : ○シュンイチ・シクマ VS ジャック・マニュエル●
1934年10月8日 ホノルル : ○シュンイチ・シクマ VS リッキー・ブルックス●

1935年1月15日 ホノルル : ●シュンイチ・シクマ VS ガス・ゾネンバーグ○

1936年2月 シスコ : ○シュンイチ・シクマ(腕固め、15分)ボブ・ケネストン●

1937年6月1日 ダラス : ○シュンイチ・シクマ VS メセニー●
1937年6月8日 ダラス : △シュンイチ・シクマ VS バシャラ△
1937年6月15日 ダラス : ●シュンイチ・シクマ VS エドワード○
1937年6月29日 ダラス : ○シュンイチ・シクマ VS オトール●
1937年7月6日 ダラス : ●シュンイチ・シクマ VS サーポリス○(柔道ジャケットマッチ)
1937年8月17日 ダラス : ○シュンイチ・シクマ VS エーリッヒ●
1937年8月31日 ダラス : シュンイチ・シクマ (ノーコンテスト) ハーパー

1938年 ロス・オリンピックオーデトリアム? : キラー・シクマ(裸締め、6分16秒)エイブ・ユーリスト
 ※当時柔術の技である裸締めはレスリングにおいては反則ではないかと議論が巻き起こったようだ。
   また、キラーはkillerではなくkillaとつづられている。

1940年6月18日 ハミルトン : W・キラー・シクマ VS ジェリー・モノハン(勝敗不明)

どうやらキラーと呼ばれ始めたのhは1938年以降のことのようだ。ホノルルで対戦しているガス・ソネンバーグは1929年にNWA世界王座を獲得した強豪である。

そして数日後、KAさんからシクマに関する資料がメールで送られてきた。当時の新聞と、柳井史なる書物からの抜粋である。

「レスリングの世界的名手」 

志熊 俊一君帰朝す
プロレスリングは世界選手権でもないと外電がないのでにほんでは殆ど知られなかったが、正真正銘の世界的日本プロ・レスラーがこの程ひょっこり朝間丸で帰ってきた。
このレスラーは山口県人で志熊俊一君と言って身長は六尺、体重二十五貫といふ堂々たる体格で今年三十四歳という素晴らしい偉丈夫だ。ハワイに生まれ永く同地に勉学している中に体格がいいのでアマチュアレスリングを学び大いに偉名を馳せていたんだが、その後昭和二年頃一一旦帰朝して京都武徳館で柔道を修行し五段に進んだ、再びハワイに帰って柔道やレスリングをやっている中のプロモーターが眼を付け、いいコーチをつけて十分訓練させた上、アメリカ本土に連れて行ってプロに仕立て上げられたのださうだ。
同君は柔道で修めた神技を利して独自のレスリングを完成し、レスリングとしては最も興味をもてれる重量級に最初の日本人として加はつただけに非常に珍とされ、しかもメキメキとその強味を加へ一度試合中相手を死に至らしめたといふので「キラーシクマ」と名されつひにメイン・エベントとして世界一流のレスラーと試合をさせられるやうになつたとのことである。
彼の試合を試みた世界的選手は現世界選手権保持者のジミー・ロンドスを初めとしてかつてのチャンピオンであるマン・マウテン・デイン(人間の山男)やロベツ或いはアリ・ババといつたやうな真に一流のレスラーで、ロンドスとは二回顔を合わせ、一度は一時間余の熱戦を演じて借敗したが、アリ・ババとは一勝一引分、デインとは二度顔を合わせて二回とも勝つているといふから懸値なしの世界一流に伍して何等遜色のない強味を有していることが明らかだ。
同君は大相撲夏場所を見学してから一時アメリカに行き欧州に渡つて相手があれば試合行脚を続けた後再び帰朝して日本のレスリング界を指揮したいとの希望を漏らしている。

以上が新聞の記事である。シクマ選手の年齢から判断するに1939年=昭和14もしくは15年の記事であろう。文面から察するに戦前のものであろう。対戦相手として紹介されているジム・ロンドス、アリ・ババ、マンマウンテン・ディーンは当時の一流どころ。しかし冒頭の文章を読むと、当時もプロレスの世界選手権は日本でも報道されていたことに驚く。

以下「柳井史」より

志熊 俊一  明治38年(1905年)〜昭和35年(1960年)
 ハワイに生まれて少年時代に帰国、身長182cm、体重95キログラムの巨漢で、大正14年に山口県師範学校を卒業後は新庄小学校を振り出しに教員生活に入ったが、得意の柔道指導には各地の補習学校、旧制中等学校から招へいされていた。
昭和5年に生まれ故郷のハワイの日系人学校から招かれて渡航し、翌6年には柔道五段に昇進した。
一方、このころからレスリングにも取り組み、昭和8年6月、我が国の練習艦隊がハワイ訪問の際には歓迎試合が催され、3000人の観客を沸かした。これもハワイ有段者会長志熊五段の平素の指導のたまものであった。
その後、プロレスへの勧誘を受けてその修練を重ね、柔道の実力を活用して独自の技を完成した。
昭和13年には重量級の世界選手権試合に日本人として初めて参加し、「キラーシクマ」の名をうたわれた。しかし 2年後の昭和15年には帰国して再び教壇に立ち、最後には神東小学校長として在職中、55歳をもって長逝した

またKAさんのおばぁ様(=シクマ選手の奥さん)の情報では、昭和15年にシクマと結婚。ハワイに戻る予定が太平洋戦争勃発のため、ハワイには戻れず、当時の朝鮮で教員をしていたそうである。このメールには「父がルーテイス?と戦ったと言えば分かるのではないかと言っていました」。ルーテイスとは恐らく、鉄人ルー・テーズのことであろう。あのテーズと対戦していたとは・・・。

そんな中、某シンジケートの情報網を通じてルー・テーズ研究の第一人者である流智美氏からの情報が寄せられた。なんと流氏はテーズ本人からシクマの名を何度も聞いていたそうである。しかもテーズがはじめて戦った日本人レスラーがシクマなのだ!テーズが世界王者になる直前にシクマと戦っていた

1937年4月26日メンフィス  引き分け
1937年5月18日エヴァンスビル  引き分け
1937年5月19日ナッシュビル  テーズの勝ち

また、テーズは流氏に「確かな実力があった。東郷とは全然比較にならないくらいのWRESTLINGの技量があった。日本にも 相撲以外のWRESTLINGがあるんだな、と思った記憶がある」と話していたそうである。レスリングと柔術の出会いは1930年代にすでに始まっていた。

しかし、これほどの名レスラーがなぜ今まで歴史の中に埋もれてしまっていたのであろうか?まだまだ多くの「埋もれてしまった強豪」がいるはずである。これらの強豪の功績を再評価するのも今後のわれわれファンの課題となろう。

  

PS:情報提供いただいた皆様に感謝いたします。