日本プロレス崩壊への軌跡 5 「これは猪木の乗っ取りだ!大木が合併に反対」

 

猪木、坂口の画期的な合併プラン発表から約1週間たった2月16日後楽園ホールの控え室で、日本プロレス選手会長だった大木金太郎が緊急の記者会見を開いた。選手会長である自分の頭越しに坂口が新日本との合併を決めてしまった事に対する反論をぶちまけたのである。

「自分が韓国に帰る前に坂口から聞いていたのは猪木の所とあくまでも対等な立場で合併する話を進めているという事だった。むしろこちらがリーダーシップを持っているということで了承したが、帰ってみると完全に猪木に主導権を握られている。これでは日本プロレスが猪木にのっとられるのと同じじゃないですか。坂口が出ていって猪木と組むのは自由だが、私は残って日本プロレスを守って行きます。」

坂口はその後も必死に大木を説得したが聞きいれられなかった。この選手会長でありエースの証明であるインター選手権者である大木の発言によって一端は坂口の説得により合併に賛成した日プロ選手のほとんどは前言を翻し、大木に付いて日本プロに残る事を宣言したのである。こうして坂口が抱いた夢「新・日本プロレス」の構想は白紙となり、坂口を始めとする5人(小沢、木村、大城、レフリーの田中)が日本プロレスを脱退し新日本に移籍するという当初の予定と比べれば小規模なものになってしまった。

 

 
合併に反対した大木。彼のエゴが伝統の日プロの火を消す事となる。

 

では何故大木はこの合併策に断固として反対したのであろうか?当時の日プロは「崩壊への軌跡5」でも書いたように、興行成績は著しく悪化して給料の遅配も発生し、唯一NETからのテレビ放映料が頼りという状況にあった。団体のエース、しかも選手会長であれば坂口の努力を甘んじて受けるのが妥当な選択のはずである。しかし、大木は坂口の申し出を「日本プロレスの灯を守る」という大義名分一点張りで一見義理を守り通すという浪花節のような印象を受けるが、本音は「一度追放した猪木に頭を下げられるか」であり、さらに推測すれば、新団体結成となれば猪木、坂口が看板となるのは目に見えており、自分の出番がなくなる事に危惧を感じていた為に、この合併策を断固拒否したというのが真実ではないか?新団体が御破算になってもNETは猪木、坂口派の放映に切り替える事を日プロのフロントに通達したという話もある。当然大木の耳にもこの話しは入っていたが、「NETさんには頭を下げてお願いするより他はない。誠意を尽くしてお願いすれば何とかなると思うのですが・・・。」と全く見当はずれな発言をしているありさまだ。「とどまる事のほうが勇気は要るんですよ。」といっているが、とどまる事によって日本プロレスが崩壊するかもしれないということには気付かなかったのだろうか?

坂口を裏切って大木の残留案に賛成したのは、高千穂、小鹿、上田、ヒライ、松岡、桜田、羽田、伊藤の8人であった。高千穂、松岡は日プロ社長の芳の里の愛弟子だったため義理を通したと考えられるが、上田は71年猪木の改革計画を経営陣に密告した張本人であり、小鹿、ヒライの二人は大木と共に猪木追放運動の急先鋒に立った選手であった。猪木がいくら「日プロの為に」と、彼らを許したとしても、猪木に対する後ろめたさがあったはずだ。だから大木の残留発言に藁にもすがる思いで飛びついたのではなかったか?これは筆者の邪推であるが、小鹿、ヒライ、上田あたりが大木に入れ知恵をして残留を決意させたのではないか?末期の日本プロレスは経営陣はおろか選手達の性根も腐りきっていたのである。それが坂口最後のUN防衛戦にもあらわれる・・・。

日プロ崩壊への軌跡 6 へつづく・・・。