日本人全レスラー名鑑 ク、ケ

 

草津清正 → グレート草津を見よ

 

草津正武 → グレート草津を見よ

 

轡田友継 → サクソン・クツワダを見よ

 

グラン浜田 ぐらんはまだ 新 → 旧U → 全 → フリー
●小さな巨人 ●167センチ、90キロ
●1950年11月27日 群馬県前橋市出身 ●高角度回転エビ固め
●UWA世界ウェルター、UWA世界ミドル、UWA世界ジュニアライトヘビー、UWA世界ライトヘビー、WWF世界ライトヘビー、アメリカスヘビー、NWA世界ミドル
本名は浜田広秋。中学時代から柔道を始め中央大学卒業後も実業団で柔道を続ける。昭和47年に高校時代の同期生であった関川哲夫(ミスター・ポーゴ)とともに新日本プロレスに入門。ポーゴは早々に退団するが、浜田は持ち前の根性で活躍。リトル浜田のリングネームで前座の人気者となる。昭和50年にメキシコに遠征。ここで水を得た魚のように浜田は才能を開花させ、現地のヒーロー的存在となる。その華麗な空中殺法はマリポーサ殺法と呼ばれ、凱旋した日本でも人気爆発。いまだに現役でまったく衰えを見せていない。2009年に大阪でMWFなる新団体を設立して現役継続中。

 

栗栖 正伸 くりすまさのぶ 新 → ジ → 全
●175センチ、100キロ
●1946年11月15日 鹿児島県肝属郡出身
国士舘大学を卒業したあと渡米し、レスラー修行をしてから新日本プロレスに入門した変り種。猪木の付き人をへて前座で活躍したあと昭和54年に念願のメキシコ遠征。当地ではマサノブ・クルスのリングネームでトップ・ルードとして活躍。昭和59年のジャパンプロ結成に参加。昭和63年には引退し大阪でジムを経営。このジムからは金本浩二らを輩出。平成2年にカムバック、イス攻撃でインディー団体を荒らしまわり、マスクをかぶって栗カラスと名乗るなどの茶目っ気を見せた。

 

ザ・グレート・カブキ 日 → 全
●東洋の神秘 ●184センチ、110キロ
●1948年9月8日 宮崎県延岡市出身 ●毒霧殺法、トラースキック
●カリフォルニアTV、NWF世界タッグ、UNヘビー、オーストラアジアン・タッグ、USタッグ(フロリダ版)、フロリダ・タッグ、ウエスタンステーツ・タッグ、セントラルステーツ・タッグ、アメリカン・ヘビー、ルイジアナ・ヘビー、ミッドアトランティックTV、ミッドアメリカン・ヘビー、世界タッグ(全日本プロレス版)
全日本プロレスの中堅レスラーであった高千穂明久の変身で、2代目のザ・グレート・カブキである(初代はフィリピン系のタロー・サクロー)。高千穂としても各地でトップを取ったが、昭和56年にダラスで知り合ったゲリー・ハートのアイディアでカブキに変身してからは全米的な人気を得る。帰国後も毒きりやヌンチャクなどのデモンストレーションで子供ファンの人気を獲得。しかし日本に定着後は新鮮味を欠いた感がある。全日本プロレス離脱後はSWSや新日本プロレスなどを渡り歩いた。1998年に引退を表明、現在は飯田橋で「串焼き・ちゃんこ かぶき」を経営している。高千穂明久の項も見よ。 サイン

 

グレート草津 ぐれーとくさつ 日 → 国 
●192センチ、118キロ
●1942年2月13日 熊本県出身 2008年6月21日没 ●原爆固め、コブラツイスト
●英国西部、英国南部ヘビー、欧州タッグ、IWA世界タッグ、AWAミッドウエスト・ヘビー

本名:草津正武。八幡製鉄のラグビー部で活躍し全日本代表にも選ばれたラガーマンだが、昭和40年に日本プロレス入り豊登に草津清正と命名され馬場の付き人となる。昭和41年に吉原功の国際プロレス創設に参加しすぐに渡米。渡米中はプロフットボーラーとレスラーの2足のワラジをはいた。昭和43年に国際プロレス(当時はTBSプロ)のエース候補としてルー・テーズに挑戦するも惨敗。日本ではこの時のマイナスイメージが付きまとったが、2度目の渡米ではバーン・ガニアのAWA世界選手権に挑戦し勝利を収めオマハ地区では世界王者に認定された。吉原社長に寵愛されたがついにエースの座を獲得することなく団体の消滅とともに引退。息子が2代目グレート草津を名乗っている。2008年6月21日、転移性癌のため逝去。追悼グラフはこちら。 サイン 

 

グレート小鹿 ぐれーとこじか 日 → 全
●極道 ●185センチ、115キロ
●1942年4月29日 北海道函館市出身 ●カラテチョップ
●USヘビー(デトロイト版)、アメリカス・ヘビー、アメリカス・タッグ、アジア・タッグ、ウエスタン・ヘビー
本名:小鹿信也。大相撲(出羽の海部屋)から昭和38年にプロレス入り。昭和39年には小鹿雷三に改名。中堅どころで活躍したあと昭和42年に大熊とともに渡米。ライジングサンズでジョージア、テネシーを荒し、大熊の帰国後はロスに転戦しマスカラスからアメリカス選手権を強奪しトップヒールとしてその名を日本へとどろかせた。帰国後は精彩をかくが、全日本プロレスに移籍後再渡米。このときはカンフー・リーをなのり、アマリロ地区でトップヒールの座を獲得。テリー・ファンクからウェスタン選手権を獲得した。帰国後は大熊との極道コンビを復活させ、全日本プロレスの名物コンビとなった。引退後プロレス界から遠ざかるが、平成に入り大日本プロレスを設立。現在運営中のブログ「小鹿注意報!」は人気沸騰。(右写真提供:花園えびす様)

 

ケンドー・ナガサキ 日 → 全 → フリー
●188センチ、120キロ
●1948年9月26日 北海道出身 ●パイルドライバー
●北米ヘビー(カルガリー版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版)、フロリダ・タッグ、アメリカン・タッグ、AWA南部タッグ、パシフィックノースウエスト・タッグ、WWC世界タッグ
本名は桜田一男。昭和46年に大相撲(立浪部屋)から日本プロレスに入門。日本プロレスには崩壊まで残り、吸収合併で全日本プロレスに移籍。昭和51年の韓国遠征ではタイガーマスク2号に変身、厳密に言えば2代目タイガーマスクはこの桜田である(初代はサムソン・クツワダ)。その年の暮れに天龍のアメリカ修行に帯同し初渡米。全米各地とカナダ、プエルトリコを転戦。カルガリーではNWA世界王者のハリー・レイスに挑戦している。一度はマスクマンのドリームマシーンとして外人側で凱旋帰国。再渡米した昭和56年ごろにケンドー・ナガサキに変身。昭和60年には全日本プロレスを退団し、ミスター・ポーゴと組んで新日本プロレスに参加。他にもランボー・サクラダ、ドラゴン・マスターなどのリングネームを使い分けている。セメントでの強さには定評があった。現在も現役としてリングに立つこともあるが、小田原市でチャンコ屋を経営しているそうだ。