日本人全レスラー名鑑  ミ

 

三沢光晴
183センチ、90キロ S37年6月28日 埼玉県越谷市出身
足利工大附属高校時代にアマレスをはじめ昭和55年の国体85キロ級で優勝。昭和56年に全日本プロレスに入門。早くから頭角を現し、越中、後藤らと前座戦線でしのぎを削った。昭和58年のルー・テーズ杯争奪戦で準優勝。翌年3月に越中と共にメキシコに遠征。EMLL系のリングで暴れていたが7月に極秘帰国して2代目タイガーマスクに変身。初代を比較されるプレッシャーをはねのけ独自のスタイルを確立。ヘビー級に転向後の平成2年に自らマスクを脱いで素顔をさらした。その後は川田、田上らとともに全日本プロレスのエースとなるが、独立してNOAHを設立。選手兼社長として活躍している。(写真撮影:HARU1番様)

 

ミスター・セキ → ミスター・ポーゴの項を見よ

 

ミスター浜口 → アニマル浜口の項を見よ

 

ミスター・ヒト 日 → フリー
183センチ、112キロ S17年4月25日 大阪府大阪市天王寺区出身 :ヘッドバット :カンサス地区世界タッグ、北米ヘビー(カルガリー版)、インターナショナル・タッグ(カルガリー版)
本名は安達勝治。昭和42年に大相撲の出羽の海部屋から日本プロレスに入門。相撲時代の四股名は浪速海で幕下17枚目まで進んだ。日本プロレスでは永源とのコンビで人気を博し、昭和48年に揃って初渡米。カンサスを中心に暴れまわる。永源とのコンビ解散後はフロリダ、カナダ、西ドイツなど世界各国を転戦。ドイツのハノーバー・トーナメントでも準優勝の成績を残している。1カルガリーに定着してからはコーチとしても才能を発揮しダイナマイト・キッド、ブレッド・ハートなどのスター選手を育て上げた。日本へは全日本プロレス、国際プロレスに登場。新日本プロレスにもキム・クロケイドのマネージャーとして顔を見せている。昭和58年に引退した後は大阪でお好み焼き屋を経営していたが、現在はカナダで生活していると言う。サイン

 

ミスター・ポーゴ 新 → フリー
185センチ、130キロ S26年2月25日 群馬県伊勢崎市出身 :凶器攻撃 :ブラスナックルズ・ヘビー
中央大学在学中は柔道部で活躍。大学を中退して大相撲の大鵬部屋に入門するが挫折。昭和47年には日本プロレスに入門を試みるも日本プロレスのゴタゴタで入門できず、新日本プロレスに高校時代の同級生だったグラン浜田と共に入門。しかしここでも挫折して単身渡米。シャチ横内のマネージャーにミスター・ジュードーを名乗って頭角をあらわし、昭和51年にはミスター・セキのリングネームで国際プロレスに参加した。その後はテキサス、カンサスなどでトップを取るまでに成長。昭和60年には新日本プロレスに出戻り参加。鎖鎌を手に猪木に立ち向かったが完全に腰が引けていた。その後はインディー団体を渡り歩きデスマッチの帝王として名を馳せた。

 

ミスター空中 旧U
175センチ、108キロ S19年 兵庫県出身
カール・ゴッチの娘婿。マレンコ道場のコーチとしても知られる。ゴッチのルートでメキシコでレフェリーを勤め、猪木VSカネックのNWF選手権試合も裁いている。昭和53年には新日本プロレスのリングにもレフェリーとして登場。旧UWFにはレフェリーとして参加していたが、途中から選手としてリングに登場。いくら腕に覚えがあるとはいえ年齢的にきついものがあった。1992年に逝去。本名は空中正三。(写真はレフェリー時代のもの)

 

ミスター珍 旧全 →日 → 国
167センチ、80キロ S7年10月12日 兵庫県神戸市出身 :ゲタ攻撃 :テネシー地区世界タッグ
もともとは兵庫県警の機動隊に勤務していたという変り種。プロ柔道を経て昭和29年に旧全日本プロレスに入門。P・Y・チャン(トージョー・ヤマモト)とのコンビで人気を呼ぶ。昭和30年には日本プロレスに移籍。中国人スタイルで人気と呼ぶ。昭和39年にTVタレント業に専念する為に引退するが、昭和41年に日本プロレスに復帰。しかし昭和46年に再び脱退し、今度は国際プロレスに登場。ここで初のアメリカ遠征を経験し、テネシーでトージョー・ヤマモトと再会し同地区の世界タッグを獲得。カナダではミスター・ヨトとして活躍。凱旋帰国の際もミスター・ヨトとして外人側で出場した。その後は独立愚連隊のマネージャーを務めるが国際プロレス崩壊と共に引退。しかし平成5年に60歳でFMWに入団。孫のような若手を相手にコミカルな試合を見せた。しかし平成7年に肝不全のため逝去。本名は出口一。サイン

 

ミスター林 日 → 全
176センチ、98キロ S17年5月17日 東京都江東区出身
大相撲の間垣部屋から昭和34年に日本プロレスに入門。林牛之助のリングネームで活躍したが、のんびりした性格が災いしてかなかなか出世できず。日本プロレスが崩壊寸前の昭和48年1月に星野とともにメキシコに遠征。14年目にして初の海外遠征だった。トーア・ハヤシ、チャーリー・ハヤシなどを名乗っていたが全く芽が出ず、結局はアメリカのフロリダにたどり着く。昭和51年8月に全日本プロレスに入団。若手の登竜門的存在となる。その後はレフェリーを務めたが、1999年に心不全のため逝去。本名は林幸一。

 

ミスター松岡 → 松岡巌鉄の項を見よ

 

ミツ・ヒライ 日 → 全
179センチ、104キロ S18年2月15日 兵庫県神戸市生田区出身 :回転エビ固め
昭和33年に中学卒業と同時に単身上京して日本プロレスに入門。昭和39年には念願のアメリカ遠征。テネシーではトージョー・ヤマモトとのコンビでテネシー地区世界タッグを獲得している。昭和44年にはシンガポールに遠征し富士辛太郎のリングネームで活躍し爆発的な人気を得た。日本ではこれといった活躍ができず万年中堅に甘んじたが、実はかなりの武闘派。日本プロレス崩壊後は全日本プロレスに登場したが昭和53年に引退。引退後は神戸で飲食店を経営していたようだが、平成14年に亡くなった。息子の平井伸和もレスラーとして活躍している。本名は平井光明。

 

緑岩
170センチ、95キロ S8年9月15日 長崎県出身
大相撲の立浪部屋(十両18枚目)からプロレス入り。怪力で豊登2世と呼ばれて期待を集めたが、すぐにプロレス界から去っている。

 

宮島富男
173センチ、95キロ S2年12月17日 栃木県出身
昭和28年に柔道の全国関税大会で優勝したこともある実力者。日本プロレス入門後も柔道殺法を駆使したスタイルで人気を博した。日本選手権ではライト・ヘビー級部門に出場しているが1回戦で吉原功に敗退している。

 

宮戸成夫 旧U → U
177センチ、88キロ S38年6月4日 神奈川県出身
少年時代からの格闘技ファンで昭和61年にUWF入り。新日本プロレス参戦を経て、新生UWFに参加してから頭角を現し始め、安生、中野と若手3羽烏と呼ばれた。UWF分裂後はUWFインターナショナルに参加。ここでは選手としてよりもフロントとして手腕を振るった。現在はスネークピット・ジャパンを主宰。