日本人レフェリー&リングアナ名鑑

 

レフェリー

 

阿部脩 → 日本人レスラー名鑑「ア」を見よ

 

遠藤光男 国
日本ボディビルディング界の第一人者で、昭和41年度のボディビル・ミスター日本となる。日本アームレスリング連盟副理事長、日本パワーリフティング協会理事を務め、錦糸町ボディビルセンターも経営していたが、昭和53年に国際プロレスに入団。当初はレスラーとして入団の予定だったという。キビキビとしたレフェリングはなかなか評判が良かった。国際プロレス崩壊後はしばらくプロレスを離れたが、昭和59年ごろに旧UWFのレフェリーを短期間務めている。現在もも時々テレビで姿を見かける。

 

沖識名 
本名=識名盛夫。沖縄出身でハワイに移住。ハワイ相撲の横綱を経てメケ三宅に入門してプロレスに転向。アメリカ本土にも進出し、インターナショナル・ジュニア・ヘビー級王者にもなっている実力者。力道山のコーチを務めてから日本プロレス協会とかかわりを持ち、長年にわたりレフェリーを務めた。エキサイトした外人レスラーにシャツを破かれるというのが定番のシーンであった。昭和48年3月に引退。日本プロレス史を語る上で欠かせない功労者。すでに故人。サイン

 

川崎信男 
当時全日本プロレスのリングを輸送していたT運輸株式会社の御曹司。昭和47年に中央大学法科を卒業。レフェリーになる事を熱望して全日本プロレスに入団。ジョー樋口の指導を受け昭和48年8月から前座のレフェリーを務めたが昭和49年中には退社している。

 

九州山義雄 
大相撲の出羽の海部屋に所属し小結まで昇進した名力士。日本プロレス設立に際し、沖識名に師事してレフェリーとして参加。レスラーの経験はないようだ。また英語で20カウントを数えられなかったという伝説も持つ(実際には数えられた)。崩壊後も猪木対大木戦の際に、大木のセコンドに付くなどしている。昭和40年頃にはすでにレフェリーも引退しておりフロント業務に専念。しかし給料以外にコーチ料の名目で新人レスラーのギャラよりはるかに高い手当てを受け取っていたという。本名=大坪義雄。すでに故人。

 

桜井公正 
昭和55年ごろに全日本プロレスに在籍していたレフェリー。以下「80サマー・アクション・シリーズ2」パンフより抜粋。「昭和32年12月27日生まれ。東京都出身。1980年新春ジャイアントシリーズでデビュー。樋口、和田の両先輩を目標にスピーディーな動きが身上。」

 

柴田勝久 → 日本人レスラー名鑑「シ」を見よ

 

ジョー樋口 → 日本人レスラー名鑑「シ」を見よ

 

田中米太郎 日→新

昭和3年1月2日高知県出身。大相撲の二所ノ関部屋時代から力道山の付き人(当時の四股名は桂浜)となり、昭和29年に力道山の後を追ってプロレスに転向。ジャイアント馬場のデビュー戦の相手としても有名だが、レスラー時代はこれと言った活躍はなかった。力道山の死後にレフェリーに転向。昭和48年に坂口征二とともに新日本プロレスに移籍し、メインレフェリーとなる。ファンをいらいらさせるレフェリングは天下一品。業を煮やした猪木に制裁を加えられることもあった。この人の作るちゃんこは最高にうまかったそうだ。

 

タイガー服部 新→全

本名は服部正男。昭和20年7月20日、東京都出身。全米アマレス選手権二連覇の実績を持ち、ヒロ・マツダのジムでコーチを務めていたこともある。1977年にフロリダでレフェリーデビュー。この頃、フロリダで活躍していたマサ斎藤、高千穂、キラー・カーンらのマネージャーも務めた。またこの頃、月刊デラックスプロレスに「タイガー服部のアメリカ・レポート」という連載も持っていた。新日本プロレスにレフェリーとして登場した後は、ジャパン・プロレス勢と共に全日本プロレスに移籍したが、新日本プロレスに出戻り。現在はフリーで活躍。BSのプロレス番組の解説も務めている。

 

ヘンリー雲井 国 
国際プロレスの日欧チャンピオン決戦シリーズのパンフレットで紹介されているレフェリー。名前から判断するに日系人か?情報募集中!

 

前溝隆男 国
トンガ出身で日本人とトンガ人のハーフ。昭和27年に大相撲の三保ヶ関部屋に入門。増錦の四股名で幕下まで昇進した。廃業後はプロ野球選手を目指し高橋ユニオンズの入団テストを受けるが球団の買収騒ぎで入団ならず。さらにはプロボクサーに転進して全日本ミドル級王座を獲得。その後、プロボウラーを経て国際プロレスでレフェリーを務めたという波乱万丈の人生を送った人物。キビキビしらレフェリングが特徴だったが、外人の反則には非常に甘かった。彼の経歴については沢木耕太郎著「王の闇」に詳しい。

 

マンモス鈴木 → 日本人レスラー名鑑「マ」を見よ

 

ミスター林 → 日本人レスラー名鑑「ミ」を見よ

 

ミスター高橋 新
昭和16年、神奈川県横浜市出身。山本小鉄の幼馴染で共にボディビルで体を鍛え日本プロレス入門を目指す。しかし高橋は肩を痛めて入門を断念。しかし嘉地久晴が興した新団体に参加し韓国、東南アジアをレスラーとしてサーキット。帰国後ボディビルダーを集めビルダーファイトなる新格闘技を考案したりしている。昭和47年に山本小鉄に誘われて新日本プロレスに入団しメインレフェリーとなる。審判部長まで務めたが目を悪くして1998年に引退。新日本プロレスのトレーニングアドバイザーをしていたが、突然暴露本を出版。良識あるファンから顰蹙を買った。

 

和田京平 
T運輸でリング輸送の主任をしていたが、巡業に同行しながらジョー樋口のコーチを受け昭和49年12月から全日本プロレスに入団しレフェリーに転向した。非常にキビキビしたレフェリングが印象的で「恭平ちゃん」コールが起こるほどの人気を博した。分裂後も全日本プロレスに残留しレフェリーを務めている。

 

 

リングアナウンサー

 

 阿久津直義 日
力道山時代に活躍したリングアナウンサーだと思われる。

 

飯橋一敏 国
昭和54年ごろから国際プロレス登場したリングアナウンサーで維新力の実兄。国際プロレス崩壊後は全日本プロレスの社員となり、外人選手移動用のバスの運転手を務めていた。よく道を間違えるので「WRONG WAY」とあだ名されたという。弟の維新力がSWS崩壊後に飯橋氏を頼って全日本プロレス入りを申し出たこともあった。全日本プロレス分裂後はNOAHに移籍。現在もパンフレット売り場などに元気な姿を見せているという。(情報提供:ドン・ボボ・エリック氏、ジャイアント鶴田氏、OX氏、トレーナー氏、レッスルアワー氏)

 

大塚直樹 新
新日本プロレスの初代リングアナウンサー。決して美声ではなかったが、どすのきいたガラガラ声は結構迫力があった。昭和50年ごろから営業部に転属。新間寿の右腕と名って活躍したが、UWF騒動の後にジャパン・プロレスを設立し、長州、谷津など新日本プロレスの主力選手を引き抜き、新日本プロレスを崩壊寸前にまで追い込んだ。

 

小松敏男 日
力道山時代から活躍したアナウンサーで、力道山家が日本プロレスと決別した際に退社している。退社後は故郷の高知でプロモーターに転進。昭和42年の東京プロレスの旗揚げの際には、飛び入りでメインエベントのリングアナウンサーを務めたこともある。

 

篠原長昭 日
「あ、本日のぉ〜メ〜インエベント〜、60分3本勝負でぇ、ございます」といった独特の節と言い回しが印象的な後期日本プロレスの名物アナウンサー。日本プロレス入社前は立教大学で応援団に所属していたという。日本プロレスの崩壊までリングアナウンサーを勤めたが、崩壊後は不動残業をといわれている。

 

鈴木利夫 国
日本プロレスの営業部員だったが吉原功をしたって国際プロレスの旗揚げに参加。営業部長として手腕を発揮していたが、竹下民夫が脱退した昭和50年ごろからリングアナウンサーを兼任するようになった。この人のアナウンスは独特の言い回しがあり非常に印象に残っている。

 

竹下民夫 → 日本人レスラー名鑑「タ」を見よ

 

仲田龍 
「昭和37年3月14日生まれ。東京都出身。1980年チャンピオン・カーニバルからリングに登場。歯切れ良い弁舌と声量で大張り切り」(以上「80サマー・アクション・シリーズ2」パンフより抜粋)

 

倍賞鉄夫 新
倍賞美津子の実弟。新日本プロレスには営業部員として入社。大塚アナが営業に回った際にリングアナウンサーとなった。よくタイガー・ジェット・シンに襲われていた姿を思い出す。一時退社するが、現在は新日本プロレスのフロントに名を連ねている。

 

原軍治 
「昭和53年5月のスーパー・パワー・シリーズから前任の百田義浩に代わって、熱戦激闘の名司会役として登場。持ち前のビ性と度胸でフットライトを浴びている。全日本プロレス創立時から営業部門の役員として参画、手腕を振るった実績がある。内外のレスラーからはヒゲの軍ちゃんと親しまれている好漢」(以上「80サマー・アクション・シリーズ2」パンフより抜粋)

 

百田義浩 → 日本人レスラー名鑑「モ」を見よ