来日全外国人レスラー名鑑 ホ1

 

ホーク・ウォリアー HAWK WARRIOR 9回
●暴走戦士 ●190センチ、127キロ
●1957年1月26日 米・イリノイ州シカゴ出身 ●ダイビングラリアート
●AWA世界タッグ、インターナショナル・タッグ(全日本プロレス版)、IWGPタッグ
60 2(全)【特】85激闘!エキサイティング・ウォーズ、60 5(全)【特】85激震!サンダー・ウォーズ、60 10(全)【特】ワールドチャンピオンC、61 5(全)【特】スーパー・パワー・S、61 10(全)【特】86ジャイアント・S、62 2(全)87エキサイト・S、62 6(全)【特】87スーパー・パワー・S、6210(全)【特】87ジャイアント・S、63 5(全)【特】88スーパー・パワー・S
本名はマイク・ヘグストランド。シカゴ出身で用心棒をしていたところをエディ・シャーキーにスカウトされたと言われている。ポール・エラリングをマネージャーにジョージア地区でデビュー。AWAに移籍してからペイント、モヒカンのスタイルになり人気爆発。NWA復帰後も快進撃を続け全日本プロレスに初来日。2〜3分で試合を終わらせるまさに暴走野郎だった。アニマルが一時リタイアしていた時期は新日本プロレスの佐々木健介(パワー・ウォリアー)をパートナーにヘル・レイザーズとして暴れた。

 

ポークチョップ・チョイス PORKCHOP CHOISE(ボビー・キャッシュ*) 2回
●黒い暴風 ●183センチ、108キロ
●1948年 米・テネシー州ノックスヴィル ●ヘッドバット
●アメリカス・ヘビー、アメリカス・タッグ、ジョージア・タッグ、ミッドアトランティック・タッグ、AWA南部タッグ、アラバマ・ヘビー、サウスイースタン・ヘビー、セントラルステーツ・ヘビー、セントラルステーツ・タッグ
47 7 (新) ニュー・サマー・S*、49 10 (新)【特】闘魂S第2弾

初来日はボビー・キャッシュの名でエニー・ラスターとのブラック・ハリケーンズで活躍、有望株として注目を集めた。帰国後、ラスターとのコンビを解消、ポークチョップ・チョイスに改名してロサンゼルス地区に転出。ここでジョン・トロスを破りアメリカス選手権を獲得しスターとなる。王座転落後、チョイスの名で二度目の来日、ラフファイトで暴れまくった。その後ポークチョップ・キャッシュに改名し中西部地区周辺でブルース・ブラザーズなるタッグコンビで活躍した。

 

ホースト・ホフマン HORST HOFFMAN 7回
●ドイツの帝王 ●190センチ、118キロ
●1942年 ドイツ・アルマニア出身 ●サイドスープレックス、ボー・アンド・アロー・バックブリーカー
●ヨーロッパ・ヘビー
47 3 (国) 第4回IWAワールド・S、48 2 (国) ビッグ・チャレンジ・S、49 6 (国) ビッグ・サマー・S、50 12 (全) オープン選手権大会、51 5 (全) NWAチャンピオン・S、 52 5 (全) NWAチャンピオン・S、52 12 (全) 世界オープン・タッグ選手権大会
ドイツ出身の実力者だが、あまりにも地味すぎて日本では今一つ真価を発揮できなかった。極度の遠征嫌いで半ば幻の強豪となっていたが、国際プロレスが招聘に成功。そのルートでAWA地区にも参戦しアメリカ流のラフ・ファイトを身につけた。全日本プロレスにも登場し試合後者振りを見せたが、特筆するような活躍は出来ずに終わっている。新日本プロレスにも来日が噂されたが実現しなかった。彼のようなレスラーが初期の新日本プロレスに来ていたら、もっと違う評価を得ていたような気がする。ボー・アンド・アロー・バックブリーカーの考案者としても知られている。サイン

 

ポール・エラリング PAUL ELLERING 10回(*はマネージャー)
●鋼鉄の鷲 ●183センチ、100キロ
●1953年8月22日 米・ミネソタ州グレイイーグル出身 ●ベアハッグ
●AWA南部ヘビー、AWA南部タッグ、IWA世界タッグ(国際プロレス版)
56 4 (国) ビッグ・チャレンジ・S、60 2(全)【特】85激闘!エキサイティング・ウォーズ*、60 5(全)【特】85激震!サンダー・ウォーズ*、60 10(全)【特】ワールドチャンピオンC*、61 5(全)【特】スーパー・パワー・S*、61 10(全)【特】86ジャイアント・S*、62 2(全)87エキサイト・S*、62 6(全)【特】87スーパー・パワー・S*、6210(全)【特】87ジャイアント・S*v、63 5(全)【特】88スーパー・パワー・S*
ボディビル出身で「鋼鉄の鷲」と呼ばれ、テネシーで活躍していたレスラー。ビリー・グラハムの再来などといわれ、未知の強豪として長らく来日が待たれていたが、国際プロレスの「ビッグ・チャレンジ・シリーズ」に初来日。テリー・ラザンをパートナーにIWA世界タッグを獲得するなど期待通りの活躍をみせた。しかし帰国後間もなく内臓疾患を患いレスラーを引退してマネージャーに転向。あのロードウォーリアーズを育て上げた。現在は証券会社で働きながら、アラスカで犬ぞりレースに参加しているらしい。サイン

 

ポール・オーンドーフ PAUL ORNDORF 4回
●鋼鉄男 ●185センチ、112キロ
●1949年10月29日 米・フロリダ州ブランデントン出身 ●サイド・スープレックス
●南部ヘビー(ミッドアメリカ版、UWF版)、北米ヘビー(オクラホマ版)、ナショナル・ヘビー(ジョージア版)
55 10 (新)【特】闘魂S、58 4 (新) ビッグ・ファイト・S 第2弾,58 7 (新) サマー・ファイト・S,58 10 (新) 闘魂S
この男もアメフトからの転向組。ヒロ・マツダに弟子入りし1976年にデビュー。大西洋岸地区を中心にサーキットし、ジョージア地区のナショナル選手権など各地のタイトルを総なめにした。日本でも未知の強豪といわれたが、昭和55年に新日本が招聘に成功、来日緒戦で藤波をリングアウトに葬った。エース候補として期待されたが、凱旋帰国の前田日明の相手に選ばれた事がオーンドーフの不幸であった。言わば新日本プロレスに使い捨てにされたレスラーの一人。スタイル的には全日本プロレス向きだったような気がする。WWF、WCWで長くトップとして活躍。WCWの幹部にもなった。(追加情報:JOE HOOKER SR氏)サイン

 

ポール・ジョーンズ PAUL JONES 4回
●荒くれ牧童 ●179センチ、108キロ
●1943年6月16日 米・テキサス州アビータ出身
●パシフィックノースウエスト・ヘビー、パシフィックノースウエスト・タッグ、アメリカス・タッグ、アトランティックコースト・タッグ、ミッドアトランティック・タッグ、ミッドアトランティック・ヘビー、フロリダ・ヘビー、フロリダTV、NWA世界タッグ(ミッドアトランティック版)
44 2 (日) ダイナミック・S、45 4 (日) 第12回ワールドリーグ戦、46 9 (日) 第2回NWAタッグ・リーグ戦、48 2 (全) ジャイアント・S結集戦
本名ポール・フレデリック。ネルソン・ロイヤルにスカウトされてプロレス入り。ロイヤルとのコンビで多くのタッグ・タイトルを獲得し、このコンビでも3回来日している。ロイヤルと同じく178センチ、108キロと小柄だが、タッグチームとしては昭和プロレス史に名を連ねる存在だった。1970年代後半には大西洋岸地区に定着、ジミー・スヌーカとのコンビで長く世界タッグを保持、1980年代にはマネージャーとなりジョーンズ軍団を結成してファンの憎悪を買った。1960〜1970年代にジョージアにいたプロモーターとは同名異人。

 

ポール・ダイアモンド(オリジナル) → ミスター・ダイアモンドを見よ

 

ポール・ダイヤモンド PAUL DIAMOND 1回
●アメリカンフォース ●183センチ、103キロ
●1961年5月11日 クロアチア出身
●テキサス6人タッグ、CWAインターナショナル・タッグ、AWA南部タッグ、AWA世界タッグ
61 10 (全) 86 ジャイアント・S
本名はトーマス・ボリックで、2代目のポール・ダイアモンド。テキサス出身と紹介されていたが、最近のプロフィールではクロアチア出身となっている。高校卒業と同時にチャボ・ゲレロの指導を受けてプロレス入り。来日時はほとんど無名に近かったが、ヒロ斎藤に挑戦が決定していた小林邦明が負傷し急遽挑戦者に抜擢されると言う幸運の持ち主。王座奪取はならなかったが、大いに善戦した。その後AWA地区に転戦しパット田中とのバッド・カンパニーでAWA世界タッグ選手権を獲得。WWF移籍後はマスクを着用してのカトーやマックスムーンとして活躍。

 

ポール・デマルコ PAUL DEMARCO 1回
●奇跡の男 ●180センチ、109キロ
●1934年 カナダ・オンタリオ州ハミルトン出身 ●首4の字固め
●NWA世界タッグ(フロリダ版、シスコ版)、ジョージア・ヘビー、USヘビー(シスコ版)
43 11 (日) NWAチャンピオン・S

本名はユーリ・ゴーディエンコ。ジョージアやサンフランシスコで活躍した中堅レスラーで、何と言ってもジョージア時代に、マネージャーのホーマー・オデールの策略によりドリー・ファンク・ジュニアからNWA世界選手権を強奪した事でアメリカン・プロレス史に名を残している。10歳のときの小児麻痺にかかり、歩行不能を宣告されたが、父の励ましでリハビリを続け、ついにはレスラーになったことから奇跡の男と呼ばれた。サンフランシスコでは長年にわたってトップ・ヒールとして君臨した。晩年はAWAでユーリ・ゴーディエンコを名乗りスキンヘッドにして、アレックス・スミルノフとのコンビで活躍した。

 

ポール・パースマン PAUL PARSMAN
●金髪の銃撃機 ●186センチ、148キロ
●1950年 米・ワシントン州バンクーバー(ミネソタ州説もあり) 2009年4月28日没 ●ワンハンドバックブリーカー
●パシフィックノースウエスト・ヘビー、パシフィックノースウエスト・タッグ、USヘビー(シスコ版)、NWA世界タッグ(シスコ版)、AWA世界タッグ、カナディアン・タッグ(バンクーバー版)、南部タッグ(ノックスビル版)
50 11 (全) 第2弾ジャイアント・S
バディ・ローズの新人時代のリング・ネーム(本名でもある)。喧嘩好きが嵩じて高校時代にレスリングをはじめ、卒業後にバーン・ガニアのレスリング・スクールに入門し、AWA地区でデビューした。2009年4月に逝去。

詳細はバディ・ローズの項参照。

 

ポール・ハリス PAUL HARRIS
英国の閃光 185センチ、108キロ
1950年 イギリス・ランカシャー出身
63 1 (全) 88 新春ジャイアント・S
昭和60年にUWFに来日したトム・タイロンの変名で、おそらく師匠のピート・ロバーツのブッキングで全日本プロレスに参加したと思われる。バディ・ランデルとのタッグで田上明のデビュー戦の相手を務めた。(情報提供:黒い一羽鷹氏)

トム・タイロンの項もみよ。

 

ホセ・アローヨ JOSE ARROYO 3回
スペインの帝王 191センチ、120キロ
1938年 スペイン・マドリッド サイドスープレックス
スペイン・ヘビー
44 3 (国) ワールド選抜・S、47 10 (国) ビッグ・ウインター・S、56 1 (国) 新春パイオニア・S
「スペインの帝王」と言われた男でスペイン選手権を独占し、プロモーターとしても手腕を振るっていた。彼の勢力範囲はスペイン国内にとどまらずアンゴラ、モザンビークといったアフリカ大陸の国にまで及んだ。最後の来日は国際プロレス末期のルー・テーズ杯争奪戦で、この時は43歳の高齢だったが、若手を押しのけ見事予選を通過した。アフリカでは大胆にも「ユル・ブリンナー」のリングネームで活躍していた。

 

ホセ・エストラーダ → カルロス・ホセ・エストラーダを見よ

 

ホセ・クインテロ JOSE QUINTERO 1回
ゲリラ男 178センチ、107キロ
キューバ出身
48 2 (国) ビッグ・チャレンジ・S
「ゲリラ男」のニックネームからの想像できるようにキューバ出身のレスラー。小型だったが気性は荒く、開幕早々にモントリオールでライバル関係にあったマイティ井上に因縁を付け、金網デスマッチに持ち込んでいる。ルー・テーズとのテレビマッチの試合がビデオに残っている。パナマの劇作家に同名の人物がいるがもちろん別人である。

 

ホセ・ゴンザレス JOSE GONZALES (ジ・インベーダー1号 *) 4回
侵略者 ●178センチ、110キロ
1949年 ベネズエラ出身
パシフィックノースウエスト・タッグ、WWC世界タッグ、WWCインターコンチネンタル・ヘビー、WWC北米ヘビー、WWC北米タッグ、カリビアン・ヘビー、カリビアン・タッグ
50 1 (全) 新春ジャイアント・S、52 4 (全) 第5回チャンピオン・力ー二バル、57 4 (新) ビッグ・ファイト・S、62 7(全) 87 サマー・アクション・S*
ベネズエラからの移民で、ペドロ・モラレスにあこがれてプロレス入りしWWWF地区でデビュー、モラレス2世として注目を浴びる。インド人のサブ・シンと名乗っていたこともある。プエルトリコではカルロス・コロンの右腕としてマッチメーカーも勤める傍ら、覆面をつけインベーダー1号を名乗った。ご存知のようにレスラーとしてではなくブロディ刺殺事件の容疑者として有名になってしまった。プエルトリコではリック・フレアーのNWA世界タイトルの挑戦して血の海沈めたこともある。

 

ホセ・ベンチュラ JOSE VENTURA ジョー・ベンチュラ*2回
●178センチ、97キロ
●1953年 カナダ・ケベック州モントリオール出身 ●ダイビングボディプレス
●GSW認定ジュニアヘビー
51 7 (国) ビッグ・サマー・S、 53 1 (国) 新春パイオニア・S*
本名はジョセフ・ビンセント・プレセンザ。ジャック・ルージョーにスカウトされてプロレス入り。モントリオール地区のジュニア・ヘビー級王者と言う触れ込みでの来日で、昭和51年の来日では寺西勇のIWA世界ミッドヘビー・タイトルに挑戦したが惜敗を喫している。昭和53年に来日したジョー・ベンチュラは弟のティト・サンザ(ジ・インフェルノとして来日)だとする説があるが、これは間違い。昭和プロレスファイルで検証しているのでこちらをご覧ください。

 

ホセ・リベラ JOSE RIVERA (クラッシャー・リバース*、マスクド・ストラングラー**3回
●186センチ、113キロ
●1945年 プエルトリコ・サンファン出身 サンセットフリップ
48 4(日) アイアンクロー・S*50 9 (国) ビッグ・ゴールデン・S、54 11 (全) 世界最強タッグ決定リーグ戦**
ビクター・リベラの実弟と言われるが、ジョニー・リベラとは違いホセの場合はどうやらビジネス・ブラザーのようである。初来日はクラッシャー・リバースの名でマスクマンとしての来日。ロス地区ではジャン・リバースの名で素顔で戦っていた。また昭和54年にはミスター・レスリングの即席パートナーとしてマスクト・ストラングラーに変身、再びマスクを被った。

 

ホセ・ルイス・メンディエタ JOSE LEWIS MENDIETA 1回
●180センチ、100キロ
●1953年9月17日 メキシコ・ソノーラ出身
●WWF世界ライト・ヘビー、ナショナル・ライト・ヘビー
56 4 (国) ビッグ・チャレンジ・S
往年の名レスラー、ペペ・メンディエタの息子。当時メキシコのEMLL系の有望若手選手で、1971年度の新人王を獲得、1977年にはナショナル・ミドル級選手権も獲得した。日本では体力負けしたためこれといった活躍は出来なかったが、帰国後しばらくしてUWAに移籍、マスクを被りランボーに変身、ビジャノ3号からWWFライト・ヘビー級選手権を獲得した。サイン

 

ホセ・ロザリオ JOSE LOTHARIO 1回
●つむじ風 ●178センチ、103キロ
●1934年 米・テキサス州サンアントニオ ●コブラツイスト
●ガルフコースト・ヘビー、ウエスタンステート・ヘビー、AWA世界タッグ(シスコ版)、NWA世界タッグ(フロリダ版)、テキサス・ヘビー、アメリカン・タッグ(テキサス版)、ブラスナックル・ヘビー(テキサス版)、フロリダ・タッグ、カリビアン・ヘビー、ルイジアナ・ヘビー
47 3 (日) 第14回ワールドリーグ戦
本名はガダルペ・ロブレド。テキサスでは根強い人気を持っていたメキシカンでワールドリーグ戦の「台風の目」と評され前評判は高かった。来日後も期待通りに白星街道を驀進するが、グレート小鹿の執拗な脚攻めにより右足を捻挫し、途中帰国を余儀なくされてしまった。ミル・マスカラスを軽く料理したと言うだけあって実力はかなりの者だった様だが、残念ながらその後一度も来日せぬままに終わっている。ショーン・マイケルズの師匠としてWWEの会場に顔を出す事もあった。ルイス・ヘルナンデスとはいとこ同士。

 

ボビー・ガエタノ BOBBY GAETANO 1回
●黒い野生猫 ●181センチ、98キロ
●1944年 カリブ海出身
58 4 (新) ビッグ・ファイト・S 第2弾
昭和50年代後半の新日本プロレスはIWGPの関係で西ドイツ(当時)のプロモーターであるハインリッヒ・カイザーと業務提携を結んでおり、そのルートで多くの欧州系レスラーが来日したが、このボビー・ガエタノもそんな中の一人。ボディビル出身でミスター・フランスになっている。181センチ98キロと小柄であったが、当時のジュニア戦線に参入する事もなく大人しく帰っていった。

 

ボビー・キャッシュ BOBBY CASH
●黒い暴風 ●183センチ、108キロ
●1948年 米・テネシー州ノックスヴィル ●ヘッドバット
●アメリカス・ヘビー、アメリカス・タッグ、ジョージア・タッグ、ミッドアトランティック・タッグ、AWA南部タッグ、アラバマ・ヘビー、サウスイースタン・ヘビー、セントラルステーツ・ヘビー、セントラルステーツ・タッグ
47 7 (新) ニュー・サマー・S
ポークチョップ・チョイスの新日本プロレスへの初来日時のリングネーム。このときはエニー・ラスターとの「ブラック・ハリケーンズ」で予想外の活躍をして話題を集めた。

詳細はポークチョップ・チョイスの項参照。

 

ボビー・クリスティー BOBBY CHRISTY (ザ・ビジランテス2号* 、ジョセフ・クリステンセン**) 3回
187.5センチ、107キロ
1947年 米・カリフォルニア州ビッグサー出身
●インターナショナル・タッグ(カルガリー版)
41 8 (日) 第二次サマー・S *、47 9 (日) 第3回NWAタッグリーグ戦 **、52 4 (国) ダイナマイト・S
史上最弱の兄弟コンビと言われるクリスティー兄弟の弟。往年の名レスラー、テッド・クリスティーとヴィク・クリスティーの甥にあたる。来日するたびに恥をかくにもかかわらず、3度に渡って姿を変えて来日した。来る方も来る方だが呼ぶ方にも責任はある。当時の雑誌にもはっきりと「弱体」と書かれていた。おもにカナダや太平洋岸地区を主戦場にしていたようである。

 

ボビー・シェーン BOBBY SHANE 1回
●白い弾丸 ●180センチ、103キロ
●1945年8月25日 米・ミズーリ州セントルイス出身(オハイオ州説もあり)
 1975年2月20日没 ●ローリング・クレイドル
●USヘビー(セントラルステーツ版)、ネブラスカ・ヘビー、ハワイ・タッグ、ジョージア・タッグ、ジョージアTV、フロリダTV、南部ヘビー(フロリダ版)
46 2 (日) ダイナミック・ビッグ・S
本名はロバート・リー・ショーエンバーガー。日本では中堅どころにも歯が立たず全くさえなかったが、本拠地のフロリダでは絶大な人気があり、ジャック・ブリスコを破って南部ヘビー級選手権を獲得し、日本の関係者を驚かせた。同地区ではTV選手権など多くのタイトルを獲得し、トップ・クラスの扱いを受けていたが、1975年2月20日サーキット中に飛行機事故に遭い帰らぬ人となる。同乗者ロン・リード(バディ・コルト)、ゲーリー・ハート、マイク・マッコード(オースチン・アイドル)らは一命を取り留めた。(追加情報:JOE HOOKER SR氏)

 

ボビー・ジャガース BOBBY JAGGERS (ミステリアス・アサシン *) 3回
●金髪の荒獅子 ●188センチ、122キロ
●1948年1月8日 米・テネシー州ノックスビル出身
●ウエスタンステーツ・タッグ(アリゾナ版)、ウエスタンステーツ・ヘビー、トライステート・ブラスナックル、カナディアン・タッグ(バンクーバー版)、フロリダ・ヘビー、フロリダ・タッグ、南部ヘビー(フロリダ版)、WWC北米ヘビー、パシフィックノースウエスト・ヘビー、パシフィックノースウエスト・タッグ、カリビアン・ヘビー
50 9 (全) ジャイアント・S、55 3 (全) 第8回チャンピオン・カー二バル *
本名はロバート・ジュードイン。テネシー出身でハリー・レイスに弟子入りしカンサスでデビュー。その後アマリロに転戦し、そのルートで全日本プロレスに初来日。シリーズ中にはなんとジャイアント馬場にフォール勝ちする快挙。この時一緒に来日していたスタン・ハンセンよりも有望視されていたが、結果的には大きく水をあけられてしまった。3度目の来日ではマスクをかぶりミステリアス・アサシンとして登場。この時も開幕戦で馬場をリングアウトで破る金星を挙げている。

 

ボビー・スローター BOBBY SLAUGHTER
●196センチ、132キロ
●1948年8月27日 米・ミシガン州デトロイト出身(コネチカット州ウィルマ出身説もあり) ●コブラクラッチ
●セントラルステーツ・ヘビー、USヘビー(ミッドアトランティック版)、WWF世界ヘビー
50 1 (国) 新春パイオニア・S
サージェント・スローターの下積み時代のリングネーム。この人もなかなか芽が出ず、何度も改名した口である。当時はまだまだ正統派で、星条旗をモチーフにしたトランクスを着用していた。1960年にプロレス入りしたということは、当時すでに15年選手であった。

詳細はサージェント・スローターの項参照。 サイン

 

ボビー・ダンカン BOBBY DANCUM 8回
●人間戦車 ●192センチ、125キロ
●1944年 米・オハイオ州トレド ●オクラホマスタンピード
●ウエスタンステーツ・タッグ、南部ヘビー(フロリダ版)、フロリダ・タッグ、ブラスナックル・ヘビー(フロリダ版、ミッドアトランティック版)、テキサス・タッグ、AWA世界タッグ
44 4 (日)第11回ワールドリーグ戦、 47 5 (日)第一次 ゴールデン・S、48 11 (全) ジャイアント・S第2弾、50 7 (全) サマー・アクション・S、 56 1 (新) 新春黄金S、56 5 (新) 第4回MSG・シリーズ、58 11 (新) 第4回MSGタッグ・リーグ戦、59 3 (新) ビッグ・ファイト・S 第1弾
人間戦車と言われた大型レスラーで、アマレス時代は「天才児」と呼ばれたほど。大学でフットボールをしているところをドリー・ファンク・シニアにスカウトされてプロレス入り。南部を転戦した後、WWWF地区に進出サンマルチノを苦しめた後、AWA地区に転出、ここでブラックジャック・ランザとのコンビでAWA世界タッグ選手権を獲得する。良く大学の後輩のスタン・ハンセンと似ているが、ダンカンのファイトはハンセンに比べ中途半端なところがあった。アメリカではどの地区でもでもトップだったが、日本では全く駄目だった。息子もレスラーとして活躍している。 サイン

 

ボビー・デュラントン BOBBY DURANTON 1回
●フランスの剣闘士 ●180センチ、105キロ
●1926年9月11日 フランス・パリ出身 2005年2月9日没
46 2 (日) ダイナミック・ビッグ・S
フランスで活躍していたレスラーだが1971年当時はロバート・デュラントンの名前でロスに出場していた為、欧州系に強い国際プロレスではなく日本プロレスに来日している。当時でキャリア15年と言うベテランで地下プロレスにも出場していたと言う触れ込みだった。いかにもフランス人というキザなテクニシャン・タイプだった。ロスではリングに上がる傍らレビューに出演、フランスでは映画にも何本か出演している。昭和47年9月の国際プロレスの「ダイナマイト・シリーズ」に来日が予定されていたが、直前になってキャンセルしている。2005年2月9日に逝去。

 

ボビー・ヒーナン BOBBY HEENAN 3回
●ザ・ブレイン ●180センチ、105キロ
●1943年11月1日 米・インディアナ州インディアナポリス出身
46 7 (国) ビッグ・サマー・S、56 7 (全) サマー・アクション・S、59 5 (全) グランド・チャンピオン・カーニバルU
本名レイモンド・ルイス・ヒーナン。「ザ・ブレーン(頭脳)」のニックネームで知られるAWAを代表する悪役マネージャー。昭和46年の初来日ではブラックジャック・ランザのマネージャーとしてファンの憎悪を買った。その後長くニック・ボックウィンクルのマネージャーとして活躍。崩壊寸前のAWAに見切りを付けてWWFに移籍。ここではゴリラ・モンスーンとのコンビでテレビ解説者として人気を集めた。レスラーとしてもクラッシャーを相手にストリート・ファイト・デスマッチを行うなど度胸もあった。ガイ・ミッチェルとは兄弟だという説もある。

 

ボビー・ブランズ BOBBY BRUNS 2回
●アイオワの虎 ●182センチ、105キロ
●1912年 米・アイオワ州出身
●ハワイ・タッグ、中西部地区世界ヘビー
26 9 国連軍 朝鮮国連軍慰問プロレス大会、29 2 (日) プロレス国際試合
ジム・ロンドスにスカウトされてプロレス入り。1947年に中西部地区で世界選手権者決定トーナメントに優勝し世界王者を名乗るが、NWAの歴代王者には彼の名は組み込まれていない。昭和26年に朝鮮国連軍慰問団として初来日。力道山と遠藤幸吉をコーチし、力道山のデビュー戦の相手も勤めた功労者。アメリカでは映画にも出演、弁護士の資格ももっていたという。

 

ボビー・ボルト・イーグル BOBBY BOLT EAGLE 
荒鷲酋長 185センチ、102キロ
1932年 カナダ・トロント ボーアンドアロー・バックブリーカー
●テキサス・ジュニア・ヘビー、USジュニアヘビー(ジョージア版)、ミシシッピ・ヘビー、アラバマ・ヘビー
48 9 (新) 闘魂S
東部地区に突然出現したインディアンレスラーで来日前から噂されていた通り、それまでに3度来日していたボブ・ボイヤーの変身であった。ボイヤーが実際にインディアンの血をひいていたかどうかは不明だが、思い切った変身として当時は少し話題になったようである。NWF、IWAでも活躍した。1980年代にイギリス、カナダにボビー・ボルト・イーグルが登場しているが、これは国際プロレスに来日したチーフ・ホワイト・フェザーの変身で、まったくの別人である。

ボブ・ボイヤーの項も見よ。

 

ボビー・ホワイトロック BOBBY WHITELOCK 1回
●185センチ、110キロ
●米・テネシー州メンフィス出身
49 11 (全) NWAチャンピオン・S
学生時代からスポーツ万能で、1964年にプロレス入り。翌年にはNWAの新人王にも選ばれたこともある。カンサス、ジョージアなどで活躍した地味なテクニシャン・タイプのレスラーだったようだ。同時に来日したレスラーが大物ばかりで全く目立たず。アメリカではレフェリーも務め、ジャック・ブリスコVSジャイアント馬場のNWA世界戦も裁いている。