異種格闘技戦出場選手名鑑

 

アノアロ・アティサノエ ANOARO ATISANOE
●183センチ、150キロ
●1957年3月31日 西サモア出身 2008年11月23日没
59 9(新) 格闘技世界一決定戦
大相撲の元大関小錦の実兄で、猪木に挑戦を表明。ガッツ石松を特別コーチにつけボクシング・スタイルで猪木に挑んだが、石松の英語のアドバイスが判りにくかったようで、本番ではほとんどボクシングテクニックを発揮せぬまま、猪木のバックドロップを食らって敗退。この格闘技戦はおそらく話題づくりのために新日本プロレスが仕掛けたものと思われる。試合後に新日本プロレス入門を宣言、前座戦線に顔を見せるようになり、翌年にはハワイで坂口と組んでハワイアン・タッグに挑戦するまでになったが、その後フェイド・アウト。2008年11月23日、心不全の為ハワイで死亡。

 

ウイリー・ウィリアムス WILLIE WILLIAMS
●熊殺し ●200センチ、106キロ
●1951年7月14日 米・ノースカロライナ州ワシントン出身
55 2 (新) 格闘技世界一決定戦
極真会館元三段の強豪で、昭和54年に猪木に挑戦を表明。こでが原因で極真会館を破門されるが、昭和55年2月に猪木戦を強行。この試合は格闘技戦史上でも指折りの殺伐とした試合になり、両陣営のセコンドも巻き込む大乱戦の結果、ウイリーは左ひじを負傷、猪木はアバラを負傷しドクター・ストップに終わった。平成に入ってからはリングスに登場し前田日明と対戦、平成8年には猪木と再戦を果たすが、完全に全盛期は過ぎており、昭和55年当時のような緊張感はない試合に終わった。現在は格闘技からは完全に身をひいてバスの運転手をしているとのこと。

 

ウイレム・ルスカ WILLEM RUSKA
●オランダの赤鬼 ●196センチ、120キロ
●1940年8月29日 オランダ・アムステルダム出身
51 2(新) 格闘技世界一決定戦、51 10(新)【特】闘魂S、51 12(新)【特】闘魂S第2弾、52 11(新)【特】闘魂S第2弾、53 4(新) 第1回MSGシリーズ、54 2(新) ビッグ・ファイト・S、54 6(新) サマー・ファイト・S、54 10(新) 闘魂S、55 1(新) 新春黄金S、55 4(新) 第3回MSG・シリーズ、55 11 (新) 第1回MSGタッグS
猪木のモハメッド・アリ戦に待ったをかけて話題になったオランダの柔道王。ミュンヘン・オリンプックの重量級と無差別級で金メダルを獲得。猪木との試合は猪木の異種格闘技戦史上最高の試合だったといえよう。猪木に敗れたルスカはプロレス転向を宣言。カール・ゴッチに弟子入りしロスや東海岸をサーキット。昭和54年ごろには新日本プロレスの一員として巡業にも帯同。日本側で試合にも出場したが、結局プロレスラーとしては大成しなかった。しかし格闘技者としては最強の部類に入る男だという評価は今なお高い。

 

キム・クロケイド KIM KLOKEID
●カラテキッド ●183センチ、106キロ
●1951年 カナダ・アルバータ州カルガリー出身
54 12(新) 格闘技世界一決定戦
本職は警察官でカルガリー・マットにカラテ・キッドなるリングネームで登場していた三流レスラー。昭和52年には国際プロレスに来日が予定されていたが負傷のためキャンセルしている。昭和54年にカルガリーに遠征に来た猪木に挑戦したとされるが、実際は新日本プロレスに依頼されたミスター・ヒトが推薦したと思われる。日本にもヒトがマネージャーとして同行。試合はあまりのもプロレス的な内容となってしまい、異種格闘技戦特有の緊張感はなかった。実は猪木の大ファンだったという。

 

チャック・ウェップナー CHUCK WEPNER
●195センチ、102キロ
●1939年2月26日 米・ニュージャージー州ペイオンヌ出身(ニューヨーク出身説もあり)
52 10(新) 格闘技世界一決定戦
少年時代から札付きの不良で少年鑑別所でボクシングと出会う。出所後はボクシングに打ち込み、1964年にプロデビュー。長年下積み時代を送るが、1975年にはモハメッド・アリの挑戦者に抜擢され、15Rまで粘る大善戦をし一躍有名に。この試合に感動したシルベスタ・スタローンが製作した映画が「ロッキー」である。1976年にはシェイ・スタジアムでの猪木VSアリ戦のスローズド・サーキット興業でアンドレ・ザ・ジャイアントと対戦。1977年にアリの猪木への刺客として来日するが、6Rに逆エビ固めで完敗を喫した。ボクサーとしての生涯成績は35勝(17KO)14敗2引き分け

 

ドン・ナカヤ・ニールセン DON KNAKAYA NIELSEN
●188センチ、93キロ
●1960年7月8日 米・カリフォルニア州ロサンゼルス出身
61 10(新) INOKI闘魂LIVE part1、62 3 (新)INOKI闘魂LIVE part2、63 4(新)スーパー・ファイトS
日系3世でマーシャルアーツの人気者だったベニー・ユキーデに入門。WKA認定USクルーザー級王者になった。日本では前田日明と対戦。一進一退の熱戦を繰り広げるが、最後は体力負けして5Rに逆エビ固めでギブアップ負けを喫した。その後も二度来日し山田恵一、藤原喜明を破っている。現在はタイで整骨院を経営。

 

バッファロー・アレン BUFFALLO ALLEN
●黒い猛牛 ●187センチ、120キロ
●1943年10月22日 米・ペンシルバニア州ハリスバーグ出身(ニューヨーク州ニューヨーク出身説もあり) 2007年3月6日没 ●ブレーンクロー
●アメリカス・タッグ、北米ヘビー(カルガリー版)、ポリネシアンパシフィック・ヘビー、バハマ・ヘビー、フロリダ・ヘビー
5211(新)格闘技世界一決定戦5211(新)【特】闘魂S、55 1 (新) 新春黄金S
柔道出身のアレン・コージの最初のリングネーム。メキシコではバッドニュースに改名してからも、このリングネームを使用している。

バッド・ニュース・アレンの項もみよ。

 

ミスターX MR.X
●195センチ、147キロ
●生年月日、出生地ともに不明
54 2(新) 格闘技世界一決定戦
ザ・モンスターマン、ザ・ランバージャックを猪木に潰された全米プロ空手界から第3の刺客という触れ込みで来日した覆面空手家。しかし実際は梶原一騎の劇画「四角いジャングル」とのタイアップ企画だったことは今考えると間違いない。非常に動きが悪くわずか3Rで逆十字固めでギブアップを喫した。あまりの不甲斐なさに来日したのは替え玉だという噂も流れた。正体に関しては全日本プロレスに来日したグレート・マーシャルボーク説が定説になりつつあるが、肌の色などから判断すると別人だと思われる。

 

モハメッド・アリ MUHAMMAD ALI
●191センチ、102キロ
●1942年1月17日 米・ケンタッキー州ルイビル出身
51 6(新) 格闘技世界一決定戦
当時名実ともに最強といわれたボクシング世界王者。東南アジア遠征の際にマスコミへのリップサービスで「アジアの格闘家の挑戦を受けてもいい」と発言したのを猪木が聞きつけたのが発端で、対戦を迫る猪木に追いまわされ昭和51年に対戦を受諾。同年6月26日ついに「世紀の対戦」が実現したが、当時は「茶番」「猪木の売名試合」と酷評されたが、今では180度違った評価を受けていることはご存知の通り。しかしこの対戦はアリには、大金をふんだくった以外は全くメリットのない試合だったといってよかろう。試合後は猪木との友情が芽生え、北朝鮮興行、猪木の引退試合に顔を見せた。しかしその自伝、伝記映画などではほとんど猪木戦には触れていない。

 

ザ・モンスターマン THE MONSTERMAN
●190センチ、110キロ
●1940年 米・ペンシルバニア州出身
52 8(新) 格闘技世界一決定戦、53 6(新) 格闘技世界一決定戦
本名はエベレット・エディ。全米プロ空手からの刺客として猪木に挑戦状を叩きつけた全米プロ空手世界ヘビー級王者。昭和52年の試合では長い手足から繰り出されるパンチ、キックで猪木を追い詰めるが、パワーボムからのギロチンドロップでKO負け。勝った猪木が思わず涙を流したというほど猪木を追い込んだ。昭和53年4月には地元のフィラデルフィアで坂口征二と対戦しKO勝ち。その余勢をかって6月に再来日を果たし猪木とのリマッチに臨んだが返り討ちにあった。昭和52年の第1戦は格闘技戦史上に残る名勝負といえよう。

 

ラジャ・ライオン RAJA LION
●226センチ、115キロ ●1966年 パキスタン出身
本名はリアズ・アーメッド。ジャイアント馬場のプロレス人生で唯一の異種格闘技戦の相手となった男。パキスタンの空手王者を自称していたが、これも眉唾物。当時の一部ファンの間ではカレーショップでアルバイトしていたのを見かけたという噂も流れたほどの超デクの坊。これは筆者の個人的な意見だが、この一戦は一連の猪木の異種格闘技戦に対する馬場の痛烈なるパロディであったと思われる。ライオンは格闘技戦のあと、全日本プロレスに入門したが、すぐにフェイドアウトしてしまった。

 

ザ・ランバージャック THE LUMBERJACK
●193センチ、100キロ
●1950年 米・ジョージア州ダンスビル出身
53 6(新) 格闘技世界一決定戦
本名はジョニー・リー。ザ・モンスターマンに継ぐ全米プロ空手界からの第二の刺客として昭和53年4月にフィラデルフィアで行われた「格闘技オリンピック」で猪木と対戦するが、3Rにダブルアーム・スープレックスをくらってKO負け。6月にはモンスターマンとともに来日、福岡で坂口と対戦したが、またもや3RにトップロープからのニードロップをくらってKO負けを喫した。モンスターマンのようなシャープさにかけた選手であった。

 

レオン・スピンクス LEON SPINKS
●186センチ、96キロ
●1953年3月11日 米・ミズーリ州セントルイス出身
61 10(新) INOKI闘魂LIVE part1
1976年のモントリオール五輪でボクシングの金メダルを獲得した実績を引っさげてプロに転向。1978年にはモハメド・アリに判定勝ちをおさめボクシング世界王座を獲得した。昭和61年に来日し猪木と対戦するが、腕ひしぎ逆十字をかけられたままフォールカウントを取られて完敗。非常に期待はずれの結果となった。平成3年からはFMWに登場、大仁田とミックスドマッチで対戦し、硬派のボクシング・ファンを悲しませた。

 

レフトフック・デイトン LEFTHOOK DAYTON
●185センチ、100キロ
●1951年 米・カリフォルニア州ロサンゼルス出身
54 4(新) 格闘技世界一決定戦
1976年度のAAU空手チャンピオンになり、その後はカンフー全米王者にもなったといわれる男だが、実はアメリカでは「タフネスマン・コンテスト」の常連で、日本流にいえばびっくり人間コンテスト王者の的な存在だったらしい。日本でも首吊りパフォーマンスを見せ、ゲテモノ扱いを受けたが、本番では予想外の善戦。猪木の攻撃を受け流したが、頭突きを食らってから一気にトーンダウン。最後はバックドロップ3連発でKO負けを喫した。