来日全外国人レスラー名鑑 ラ
| ラ・フィエラ
LA FIERA
2回 野獣戦士 176センチ、93キロ 1961年メキシコ・プエブラ : NWA世界ミドル、同世界ウェルター |
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| 59 8 (全) 【特】スーパー・パワー・S、59 10 (全) ジャイアント・S | |
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父もルチャドールで若干16才で地元ブエブラでデビュー。1981年、デビュー4年にしてリスマルク(父の方)からNWA世界ウェルター級を奪取。昭和59年に全日に日本初来日しご存じのように三沢タイガーのデビュー戦相手をつとめる。おそらく三沢がメキシコ武者修行中手をあわしていたので相手に抜擢されたと推測される。翌年グラン浜田からNWA世界ミドル級を奪取。当時10人目となるNWA中量級2階級制覇を達成した。本名はアルトゥーロ・カスコ・エルナンデス。(解説:TMKID氏) |
| ラーズ・アンダーソン LARS ANDERSON 3回 ミネソタの難破船 185センチ、115キロ 1939年3月14日米・ミネソタ州ミネアポリス :フロリダ・ヘビー、ジョージア・タッグ |
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| 45 9 (日) 第1回NWAタッグリーグ戦、48 4 (国) ダイナマイト・S、48 9 (国) 第5回lWA・ワールド・S | ||
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アンダーソン兄弟の三男を名乗っていたが当然血縁関係はない。おもにAWA地区で活躍したが、ハワイを主戦場としていた時期があり、ハワイでは本名のラリー・ハイニエミをリングネームに使っていた。日本では第5回IWAワールド・シリーズで準決勝まで進む活躍を見せた。引退後はハワイでTシャツ屋を経営する傍ら、リア・メイビア(ピーター・メ イビア未亡人)との共業でプロモーターとして手腕を発揮したが、強引なチケット販売に警察の手が入り、罪をかぶせられてブタ箱入りした。 (補足:JOE HOOKER SR氏)サイン | |
| ラウル・カステロ
RAUL CASTELLO (ドミンゴ・マラビラ
*) 2回 ドミニカの黒豹 187センチ、106キロ キューバ(?) |
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| 50 10 (新)【特】闘魂S第2弾、53 5 (全) スーパー・パワー・S * | |
| キューバ出身ではなく、プエルト・リコ出身の選手。フィデル・カステロとは実の兄弟。カナダあたりでは兄とのカストロ兄弟として活躍したが、プエルト・リコではドミンゴ・マラビアのリングネームでベビーフェースとして活躍。WWF地区で活躍した時にはシェア・スタジアムの興業にも出場している。 | |
| ラウル・マタ RAUL MATA 2回 メキシコの鷹 178センチ、102キロ 1947年1月26日メキシコ・ハリスコ州グァダラハラ :ドロップキック :アメリカスヘビー、太平洋岸ヘビー、NWA世界ライトヘビー、ナショナル・ヘビー、同ライトヘビー |
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| 51 4 (新) 第3回ワールド・リーグ戦、60 2 (旧U) パンクラチオン・ロード | |
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「メキシコの鷹」のニックネームで1970年代初頭にロス地区でスターとなったメキシコの選手。日本へは新日本プロレスの第3回ワールドリーグに初来日。2勝(不戦勝1)11敗という散々な成績に終わり、期待を裏切った。帰国後はメキシコに戻り、短期間だがNWA世界ライト・ヘビー級王座に就いた事もある。メキシコのほかにロス、テキサス、フロリダで活躍した。フロリダ時代にカール・ゴッチのコーチを受け、そのルートで昭和60年に旧UWFに参加しているが、まったく水が合わなかったことはいうまでもない。ロスで藤波に挑戦して善戦したカルロス・マタは実弟である。 |
| ラウル・ロメロ RAUL ROMERO 1回 ルチャの仙人 168センチ、81キロ 1914年メキシコ・ドゥランゴ州 :ロメロスペシャル :ナショナル・ライトヘビー |
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| 31 4 (旧国) プロレス国際試合 | |
| 日本にはじめてやってきたマスクマンで、体付きはどう見ても貧弱であたかも学生プロレスの選手のようであった。メキシコ・ジュニア・ヘビー級選手権者として来日したが、木村政彦にタイトルを奪われている。メキシコではナショナル・ライトヘビー級王者にもなっている。引退後はメキシコでレスリング学校を開校し後進の指導にあたった。ロメロ・スペシャルの考案者としても有名だが、この技を開発したのはリト・ロメロだといわれている。(補足:JOE HOOKER SR氏) | |
| ラギット・ラシアンズ
A 、B THE RUGGED RUSSIANS A&B ロシアの殺人団 A 178センチ、104キロ 1926年スペイン、B 181センチ、110キロ 1923年チリ |
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| 47 4 (新) オープニング・S第2弾 | |
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オープニング・シリーズ第2弾のエースとして来日した覆面コンビで、来日直前までWWWF地区で活躍しMSGにも出場していたが、正体はAがジャン・セバスチャン、Bがペドロ・ゴドイ(メディコ1号で来日)というロートル・コンビ。WWWF地区ではカール・ゴッチ、レーン・ゴルト組のWWWF世界タッグ選手権に何度か挑戦しているが、実力の方は今一つであった。 ジャン・セバスチャン、メディコ1号の項も見よ。 |
| ラスプーチン RASPOUTINE 1回 怪僧 186センチ、110キロ 不明 |
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| 49 5 (新) ゴールデン・ファイト・S | |
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パンフレットには「別のリングネーム ワイルド・アンガスも名乗る。・・・かつて国際プロレスに出場したこともある。」と、あたかもワイルド・アンガスと同一人物のように紹介しているが、やってきたのは185センチそこその偽者であった。経歴などはほとんど不明。実力は2流以下で、星野、木戸クラスには全く通じず若手レスラーにも苦戦するありさまだった。 |
| ラッキー・シモノビッチ LUCKY SIMUNOVICH 5回 ユーゴの荒鷲 183センチ、105キロ 1924年ユーゴスラビア |
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| 31 4 (日) プロレス国際試合、34 1 (日)プロレス国際大試合 、36 1 (日)プロレス春の国際試合、39 1 (日)新春国際試合 、41 10 (東) ビッグ・マッチ・S | |
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「ユーゴの荒鷲」と呼ばれた強豪で1950年代にハワイで活躍したレスラー。巨体に似合わず飛び技を得意とし、ドロップキックの使い手として有名だった。また、来日中に力道山主演の映画「怒れ、力道山」に敵役の外人レスラー役で出演している。力道山の訃報を耳にし、日本プロレスの行く末を気遣い飛んできたという男気のあるレスラー。東京プロレスに参加した時はレフリーも勤めた。 |
| ラパパポスキー RAPAPAPOSKI ロシアの狂人183センチ、110キロ ロシア |
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| 48 2 (国) ビッグ・チャレンジ・S | |
| ロシア系レスラー ソルダ・ゴーリキの変名。ラパパポスキーとして国際プロレスに来日した際はマッドドッグ・バションとのそっくりコンビで大活躍。日本勢を血の海に沈めた。 詳細はソルダ・ゴーリキの項参照。 |
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ラブ・ブラザーズ → ハートフォード・ラブ、レジナルド・ラブをみよ
| ラモン・ロモ
RAMON
ROMO 1回 メキシコ・コアウィラ州トレオン |
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| 31 4 (旧国) プロレス国際試合 | |
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木村政彦が率いる国際プロレス団が招聘した3人のメキシコ系レスラーのうちの一人。来日当時はメキシコ・ライトヘビー級チャンピオンとして紹介されていた。ボクシングの経験が長く場外乱闘では持ち前の強打を発揮。 |
| ラリー・オーディ LARRY ODEY 2回 オーストラリアの鷹 186センチ、109キロ 1942年オーストラリア・キャンベラ :南部タッグ、豪州タッグ |
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| 47 6 (日) 第2次ゴールデン・S、48 10 (全) 創立1周年記念ジャイアント・S | |
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ロン・ミラーとの「ジ・オーストラリアンズ」で活躍したレスラーで、初代ザ・カンガルーズのロイ・ヘッファーナンのコーチを受けてプロレス入り。オーストラリアで実績を積んだ後、パートナーのロン・ミラーと共にアメリカに進出、フロリダでロニー・ガービン、オレイ・アンダーソン組から短期間ながら南部タッグを獲得し注目を浴びた。晩年はオーストラリアで息子とのタッグで活躍、NWAのタッグトーナメントにも親子タッグで出場した。 |
| ラリー・シャープ LARRY SHARPE 5回(*はマネージャーとしての来日) 金髪の吸血鬼 180センチ、120キロ 1950年米・ニュージャージー州 :インターナショナル・タッグ(カルガリー版) |
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| 51 4 (全) 第4回チャンピオン・カーニバル、52 1 (国) 新春パイオニア・S、54 8 (全) ブラック・パワー・S、55 8 (新) ブラディ・ファイト・S、62 1(新)ニューイヤーダッシュ87* | ||
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東部のプロモーターであったワイール・オギの息子。全日本プロレスの第4回チャンピオン・カーニバルに来日した時はひたすら白星を配給した。カナダでリッパー・コリンズとのボディーシャス・ブロンドスを結成しこのチームで国際プロに来日。帰国後はNYでジャック・エバンスとニュー・ボディーシャス・ブロンドスを結成し人気者となる。後にシェイ・スタジアムのビッグマッチで猪木のNWF防衛戦の相手に選ばれた時には驚いた。その因縁を引きずって新日本プロレスに来日した際には、ハンセンのパートナーとして活躍。坂口征二の北米選手権に挑戦する抜擢も受けた。引退後モンスター・ファクトリーを設立、バンバン・ビガロを輩出、レスラー転向すぐの北尾のコーチもした。 サイン | |
| ラリー・ジャクソン LARRY JACKSON (在日米軍) | |
| 31 7 (日)プロレスリング国際大試合、34 9 (日) プロレス秋の国際試合、 35 7 (日) プロレス夏の国際試合、 35 8 (日)プロレス秋の国際試合 | |
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不定期かつ頻繁に前座を賑わしていた在日軍人レスラー。しばしば会場に足を運ぶ通のファンの投書によると、「アルバイト意識は捨てよ。」と厳しい評価がなされていた。(解説:JOE HOOKER SR氏) |
| ラリー・ズビスコ LARRY ZBYSCO 5回 発電所2世 185センチ、120キロ 1954年米・ペンシルベニア州フィラデルフィア :ショルダーバスター :WWWF世界タッグ、AWA世界ヘビー |
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| 50 9 (全) ジャイアント・S、53 6 (新) サマー・ファイト・S、54 4 (新) 第2回MSG・シリーズ、56 7 (全) サマー・アクション・S、 57 10 (全) 【特】ジャイアント・S | |
| サンマルチノの愛弟子としてデビュー、トニー・ガレアとのコンビでWWWF世界タッグ王座になり新日本プロレスのMSGシリーズに参加、決勝リーグに進出したが全敗の記録を残す。帰国後サンマルチノに造反しヒールに転向。ヒールになってからはめきめき頭角をあらわしWWF、NWA、AWAの主要エリアでトップとなる。最終的にはAWA世界王者として再び新日本プロレスのリングに立つがマサ斎藤に敗れ王座を失う。帰国後、奪回し最後のAWA世界王者となった。 | |
ラリー・ハイニエミ → ラーズ・アンダーソンの項を見よ。
| ラリー・ハミルトン LARRY HAMILTON 1回 | |
| 60 5 (旧U) 格闘技オリンピア | |
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元アサシンズのロッキー(=ラリー)・ハミルトン(白人)と同名だが全くの別人。しかも黒人だっ た。リング上では何もできずに白星のみを配給して帰っていった。 (解説:JOE HOOKER SR氏) |
| ラリー・ハミルトン LARRY HAMILTON ( ミスター・フー *)
2回 ミズリーの恐怖 183センチ、110キロ 1929年米・ミズーリ州セントルイス :フライングタックル :南部ヘビー、フロリダ・タッグ |
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| 36 11 (日) プロレス冬の国際試合*、47 9 (日) 第3回NWAタッグリーグ戦 | |
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アメリカではロッキー・ハミルトン、ミズリー・モウラーのリングネームで活躍したベテラン・レスラーで弟のジョーとのコンビで初代アサシンズとして活躍した事でも有名。ラリー・ハミルトンは本名。日本へは赤覆面のミスター・フーとして初来日したが、開幕戦で自ら覆面を脱いでいる。11年後に弟とのコンビで第2回NWAタッグリーグ戦に参加、下馬評では全く期待されていなかったが、本命のホッジ、ロイヤル組を抑えて決勝に進出し、タッグ専門屋の面目を保った。アメリカではヒロ・マツダとのコンビでも活躍している。この人も息の長い選手。 |
| ラリー・バリアント
LARRY
VALIANT 金髪の爆弾 197センチ、125キロ 1942年カナダ・オンタリオ :エルボードロップ :セントラルステーツ・ヘビー |
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| 55 2 (全) エキサイト・S | |
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5回の来日が全て別のリングネームという、改名魔のガイ・ミッチェルがニューヨークでバリアント兄弟の一員となった時のリングネーム。日本へもそのままのリングネームで来日した。 詳細はガイ・ミッチェルの項参照。 |
| ラリー・ヘニング LARRY HENNING 5回 北海の獅子王 190センチ、135キロ 1936年米・ミネソタ州ミネアポリス :エルボードロップ :AWA世界タッグ、IWA世界タッグ |
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| 37 4 (日) 第4回ワールドリーグ戦、45 11 (国) ビッグ・ウィンター・S、48 1 (国) 新春パイオ二ア・S、 51 10 (新) 闘魂S第2弾、56 11 (全) 世界最強タッグ決定リーグ戦 | |||
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「北海の獅子王」と呼ばれたバイキングの血を引くレスラー。主にAWA、WWFエリアで活躍、ハーリー・レイスを見出しコンビでAWA世界タッグを獲得した事でも有名。レイスとは喧嘩別れしたものの、晩年にレイスが最強タッグのパートナーに指名した時には、その友情物語に泣かされた。国際プロレスではブラックジャック・マリガン(当時はボブ・ウィンダム)とのコンビでIWA世界タッグを獲得。ミスター・パーフェクト・カート・ヘニングの実父。本名はローレンス・ヘンリー・ヘニング。 | |
| ラリー・レーン
LARRY
LANE 2回 カナダの雷鳥 186センチ、118キロ 1946年カナダ・アルバータ州カルガリー :ブレンバスター :ウェスタン・ヘビー、インターナショナル・ヘビー(米南部地区)、北米ヘビー(カルガリー版) |
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| 51 4 (全) 第4回チャンピオン・カーニバル、54 4 (全) NWAチャンピオン・S | |||
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「カナダの雷鳥」と言われたレスラーで、カルガリー地区では英雄的な人気を誇っていた。一時は試合中のアクシデントで首の骨を折り再起不能といわれたが、見事に執念でカムバックしたことで不死身の男ともいわれた。カナダでは長く北米ヘビー級選手権を保持。フロリダに遠征した際はPWF選手権と全く同じベルトを巻いた写真が雑誌に掲載され話題を呼んだ。 | ||
ラリー・レイザム → スポット・ムーンドッグを見よ。
| ランス・フォン・エリック LANCE VON ERICH 1回 筋肉獣 185センチ、117キロ 1960年米・テキサス州アーリントン :パシフィック・ノースウェスト・ヘビー |
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| 61 10 (新) 10・9 lNOKl闘魂LlVE・PARTT | |||
| ビリー・ジャックにスカウトされオレゴンでデビューし、PNW王者になった後、ワルドー・フォン・エリックの息子と言う触れ込みでダラス地区に転戦。当時ダラス地区と提携していた新日本プロレスが招聘したが、これが全くの食わせ物であった。全然試合の組み立てが出来ないというプロレスラーを名乗る以前のショッパさのため、わずか1試合しただけで帰国している。帰国後はファビュラス・ランスを名乗り活躍。全日本プロレスが昭和63年の「新春ジャイアント・シリーズ」への参加を発表したが、来日はなぜか中止となった。 | |||
| ランディ・オルズ
RANDY ORSE (
ランディ・ローズ*)2回 斬りこみ隊長 185センチ、110キロ 1953年米・ジョージア州アトランタ : AWA世界タッグ |
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| 55 9 (国) 第1次ダイナマイト・S、55 9 (国) 第2次ダイナマイト・S(残留)、55 9 (国) ダイナマイト・S* | |||
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アブドーラ・ザ・ブッチャーにスカウトされてプロレス入り。ジョージア地区で暴れた後、国際プロレスに来日。その後ランディー・ローズに改名し、テネシー地区でノーベル・オースチン、デニス・コンドリーとミッドナイト・エキスプレスを結成。一時解散したが、ボビー・イートンとスタン・レーンが同名のコンビを結成したため、コンドリーと再びタッグを復活し、オリジナル・ミッドナイト・エキスプレスを名乗った。復活後のコンビではAWA世界タッグを獲得している。1990年には全日本プロレスに登場し小橋健太7番勝負の相手を務めた。 | ||
| ランディ・コーレイ RANDY COLEY 1回 182センチ、125キロ 1948年米・アラバマ州 :中西部タッグ、WWF世界タッグ、南部タッグ(テネシー版) |
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| 61 4 (新) ビッグ・ファイター・S | |||
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1970年代後半にランディ・ダルトンを名乗りジム・ダルトンとコンビを組んでいたことがあり、昭和53年6月の国際プロレス「ビッグ・サマー・シリーズ」にダルトン兄弟として来日が決まっていたが、直前に負傷し来日を中止している。1980年代WWF地区でレックス・ムーンドッグを名乗り、キング(クレイジー・セーラー・ホワイト)とオリジナル・ムーンドッグスを結成し、WWF世界タッグ選手権を獲得、藤波、谷津組の挑戦も受けた。ムーンドッグス解散後はザ・デモリッションの参加、初代スマッシュとなるがすぐにWWFを離脱。来日時は本名のランディ・コーレイを名乗っていた。 | ||
| ランディ・タイラー
RANDY TYLER
2回 破壊児 190センチ、130キロ 1949年カナダ・ケベック州モントリオール :デッドリードライブ |
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| 53 8 (全) 第2次サマー・アクション・S、 55 6 (国) ビッグ・サマー・S | |||
| アメリカンフットボールの出身で、リップ・タイラーにスカウトされ彼の弟と言う触れ込みでオクラホマ地区でデビュー。しばらくリップ・タイラーとのコンビで活躍するが、その後コンビを解消しシングル・プレーヤーとして活躍。巨体に似合わず非常に運動神経の良い選手であった。国際プロレス参加時はIWA世界選手権に挑戦する抜擢を受けたが、アメリカではぱっとせず中堅の域を出ぬままに終わった。(写真提供:HARU一番様) | |||
ランディ・ダルトン → ランディ・コーレイを見よ
| ランディ・ローズ
RANDY ROSE 斬りこみ隊長 185センチ、110キロ 米・ジョージア州アトランタ :AWA世界タッグ |
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| 55 9 (国) ダイナマイト・S | |||
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ミッドナイト・エクスプレスのオリジナル・メンバーで人気を博した男で、昭和53年に本名のランディ・オルズで初来日している。 詳細はランディ・オルズの項参照。 |
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| ランディー・カーチス
RANDY CURTIS 1回 南部の青さそり 176センチ、100キロ 1942年米・ルイジアナ州 :エアプレーンスピン |
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| 45 11 (日) インター・チャンピオン・S | |||
| 父親も有名なレスラー、ジャック・カーティス。アメリカのレンジャー部隊に所属しベトナム戦争を戦ったことがあるといわれている。勝率76%と言う触れ込みで来日したが、まだまだキャリア不足で中堅どころに総ナメにされた。 | |||
| ランバージャック THE RUMBERJACK 1回 | |||
| 59 8 (旧U) ビクトリー・ウイークス | |||
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カナダ東部、ニューブランズウィック地区で闘っており、ラッシャー・木村が当地とコネがあったため来日。何の印象も残さぬまま帰国した。(解説:JOE HOOKER SR氏) | ||