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ザ・サーチャーズ / THE SEARCHERS 
 
   ディスコグラフィー
 
 メンバー   
 マイク・ペンダー MIKE PENDER (g,vo)     クリス・カーティス CHRIS CURTIS (dr,vo)

 ザ・サーチャーズのリードギター&ボーカルを担当。1942年3月3日リヴァプールの出身。学生時代は優秀なサッカー選手だったという。デビュー当時はサイド・ボーカル的な存在だったが、ジャクソンの脱退後はリード・ヴォーカルを受けもち、クールなヴォーカルでサーチャーズのサウンドに変化をもたらした。ギターの腕前もなかなかのもの。

 

'1942年8月26日オールダム生まれで、4歳の時にリヴァプールに移り住んだ。サーチャーズ加入前は家具屋の店員として働いていた。ライブではMCを勤めるなどリーダー的存在であった。1965年末に精神的疲労でサーチャーズを脱退。ソロでレコードを出した後、ディープパープルの母体となるラウンドアバウトなるバンドを結成するが活動前に脱退。パイレコードのA&Rマンとなった。

 トニー・ジャクソン TONY JACKSON (b,vo)    ジョン・マクナリー JOHN McNALLY (g,vo) 
1940年7月16日リヴァプール生まれ。学生時代はバスケットボールとサッカーの選手として活躍し特にサッカーはプロを目指す腕前だったという。デビュー当時はリードヴォーカルを勤め、独特のヴォーカルでサーチャーズ・サウンドを確立したが、64年にリードヴォーカルがペンダーに移行していったことに不満を抱き脱退。脱退後はヴァイブレーションなるバンドを結成して活躍した。  

 1941年8月30日リヴァプール生まれ。マイク・ペンダーとともにサーチャーズの母体となるエヴァリー・ブラザーズ・スタイルのデュオを結成してから、現在までサーチャーズに在籍している。サーチャーズ一筋の男。ライブではリードヴォーカルも担当していた。

 フランク・アレン FRANK ALLEN (b,vo)     ジョニー・ブラント JOHNNY BRANT (dr,vo)
 1944年12月14日生まれフランク・アレン&スカイウェイズのリーダーをして活躍した後クリフ・ベネット&レベルラウザーズに参加。64年にトニー・ジャクソンが抜けた後釜としてサーチャーズに迎えられた。サーチャーズのメンバーとはハンブルグ時代からの知り合いだったという。現在もサーチャーズのメンバーとして活躍。  

'66年にカーティスが脱退した後釜として69年までサーチャーズに参加。詳しい経歴は不明。



「ラブ・ポーションNo9」

サーチャーズの代表曲といえば?と聞かれたら半分以上の日本人が「ラブ・ポーション・ナンバー・ナイン」と答えるだろう。この曲ははじめ日本では「ラブ・アゲイン」のB面に収録されていたのだが、アメリカでのヒットに乗じて日本でも人気が出始め、セカンド・プレスからA面に昇格したという曰く付きの曲である。実際この曲こそが初期のサーチャーズ・サウンドが凝縮されたものといっても過言ではあるまい。

この曲を聞いていただければ分かるようにサーチャーズのレパートリーは、ほとんどがR&Bのカバーであった。しかし彼らが今日ローリング・ストーンズなどのロンドン出身のグループのようにR&Bグループとして評価されていないのは、そのアレンジがあまりにも洗練されていたためと思われる。つまり彼らはR&Bから黒人的な要素を取り除いた白人のリスナーに聞きやすいアレンジを施したというわけだ。彼ら自身も他のリバプールのグループと違って、R&Bグループと呼ばれる事を嫌っていたという。初期のサーチャーズ・サウンドの特徴は、軽快さにあると言える。マイクのギター然りイギリス版フランキー・ヴァリと称されたトニーのハイトーン・ボーカル(グラハム・ナッシュのそれとは一味違う。)然り。トニーの声には全く暗さはないが、これにマイクやクリスの枯れたボーカルが加わる事により、あの独特のサーチャーズ・サウンドが完成するのである。(しかしこの初期のサウンドはトニーの脱退と共に180°変わったものになる。)彼らこそ後に登場するアメリカのフォーク・ロック・グループのルーツだという評論家もいる。これはバーズに与えた影響を考えてみても納得できる。また当時のイギリスではまだポピュラーでなかったアメリカのR&Bやポップ・チューンを一般のリスナーに紹介した功績も忘れてはならない。

結成からデビューまで

サーチャーズが結成されたのは61年。高校の同級生だったジョン・マクナリー(リズム・ギター)とマイク・ペンダー(リード・ギター、ヴォーカル)のギター・デュオにトニー・ジャクソン(リード・ヴォーカル、ベース)とクリス・カーティス(ドラム)が加わりサーチャーズとなった。この名前はジョン・ウェインの映画(邦題「捜索者」)から拝借したというのは有名な話である。彼らはまずカントリー系の歌手ジョニー・サンドンのバックバンドとして活動を始めたが、62年の3月にジョニーがレモ・フォーと組む事になりサーチャーズは彼から独立した。4人はまずリバプールのクラブ、アイアン・ドアのハウス・バンドとなり腕を上げ、秋にはビートルズと同じくアラン・ウィリアムスのルートでドイツのスター・クラブに出演する。(この時のライブを収録した音源が後にフィリップスからリリースされた。)

ジョニー・サンドン

63年になるとサーチャーズは、オーディション用に自主制作のアルバムを作った。これは一説にはデビュー・アルバムとほぼ同内容であったといわれる。このアルバムを聞いて彼らと契約したのがパイ・レコードのトニー・ハッチだった。6月にはドリフターズの「スウィーツ・フォー・マイ・スウィート」のカバーでデビュー、これがイギリスで1位にランクされるヒットとなった。トニー・ハッチは抜け目なく「スウィーツ・〜」をメインにしたアルバム「ミート・ザ・サーチャーズ」を制作する。このアルバムはほとんどがR&Bのカバーで占められており、ビート・グループによる初めてのR&Bアルバムといっても過言ではないだろう。アルバム・チャートで2位にランクされるヒットとなった。続くシングルのハッチが書いた「シュガー・アンド・スパイス」は2位まで上昇するヒットを記録、再びこの曲をメインにしたアルバムを制作する。

ボーカリストの交代

3枚目のシングルではアメリカの女性ソングライター、ジャッキー・デ=シャノンの「ピンと釘」をカバーしたのだが、プロデューサーのトニー・ハッチはここでリード・ヴォーカルにマイク・ペンダーを起用した。スロー・テンポのこのバラードにマイクの低音のボーカルは見事にマッチし再び全英1位に輝くヒットとなった。続くシングルの「心がわりはやめとくれ」でもマイクがリード・ヴォーカルをとり再び全英1位となった。また3枚目のアルバム「イッツ・ザ・サーチャーズ」でもトニーは1曲しかボーカルをとっていない。マイクとクリスのボーカルは、トニーの声質とは違い、非常に落ち着いたもので、このアルバムも全体的に大人びた感じになっている。つづくシングル「ラブ・アゲイン」はやや迫力不足の力で、初めてトップ・テン入りを逃したシングルとなった。

トニー脱退の真相

さて、このシングル発売後にトニーが脱退するのだが、今まではリード・ボーカルを外された上に、クリスとの仲が険悪になったため、サーチャーズに幻滅して脱退したという、トニーに同情的な原因が通説となっていたが、昨年クリスがインタビューで語ったところによると、トニー脱退の原因は"Needles And Pins"のレコーディングの際、当初トニーが歌ったものの彼の声質がこの曲には適さない為、結果的に声質がフィットしたマイクがヴォーカルをとった訳だが、この時トニーがヴォーカルを取ると強行に主張、「取らせなければお前の秘密を暴露してやる」とまでリーダーのクリス・カーティスに詰め寄ったために、解雇されたと言うのが真相のようだ。但し解雇された時期については、クリスは「その時点で」といっているが、トニーを含むメンバーで、4枚目のシングル「心がりはやめとくれ」を演奏しているライブビデオが残っているので、実際はもう少し後の事かもしれない。この様なスキャンダルがグループのイメージを傷付けるのを恐れて、今まで真相は語られなかったのだろう。よって3枚目のアルバムにのトニー色が殆ど感じられないのは、このセッションの時点で既に彼は解雇されていた為である。という訳で、3枚目のアルバムはトニー抜きの暫定的なメンバーによって録音されたと見るのが妥当だろう。

グループを解雇されたトニーは、ヴァイブーレーションズを結成してパイと契約したが、サーチャーズで勝ち得た成功を再び手にする事は出来なかった。トニーが自分のグループを結成したころ、残された3人のメンバーはトニーに変わるベーシストを募集するために、雑誌にオーディション広告を載せるのである…。

文・ドクター・ミック
資料提供・犬伏功



 
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