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ザ・ゾンビーズ / THE ZOMBIES 
 
   ディスコグラフィー
 
 ザ・ゾンビーズといえば、、「She's Not There」「Tell Her No」「Time Of The Season」というビッグヒットを持つグループで、その洗練されたスタイルが今になって高く評価されるようになったが、活動期間は短かかった。

 ゾンビーズの母体はロッド・アージェントが高校時代にアトキンソン、グランディーと組んだトリオで、おもにR&B、ジャズを演奏していたという。これにコリン・ブランストーン、ポール・アーノルドが加わって5人組となり、アーノルドの命名でザ・ゾンビーズと名乗るようになった。しかしアーノルドが脱退。後釜としてクリス・ホワイトが加入する。
しかし大学を卒業する際に解散を決意。解散の記念に「ハート・ビート・コンテスト」に出場。しかしなんとこのコンテストに優勝。テリー・アーノルドがマネージメントを申し出てDECCAと3年契約することになる。当初アージェントは「Summertime」でのデビューを考えたが、プロデューサーのケン・ジョーンズはアージェント作の「She's Not There」をデビュー曲に採用。1964年7月24日にリリースされると12位のヒット。このシングルはアメリカではパロット・レーベルからリリースされるや、なんと全米第2位の大ヒットを記録する。このヒットを受けてゾンビーズの面々は渡米する。アメリカでの人気は高く、1964年11月には早くもアルバム「THE ZOMBIES」をリリース。12月には「Tell Her No」を先行リリースし、これまた6位の大ヒットを記録する。「Tell Her No」はイギリスでは1965年1月にリリースされたが、30位を記録するのがやっと。デビュー・アルバム「BEGIN HERE」もアメリカから9ヶ月遅れでリリースされたが、ヒットにはいたらなかった。この年ゾンビーズはローレンス・オリヴィエ主演の「Bunny Lake Is Missing」に出演し「Remember You」を演奏している。人気を誇ったアメリカでも人気は徐々に低下。1967年にはDECCAとの3年契約が終了する。

 DECCAとの契約が満了し、ゾンビーズはCBSに移籍。ジェフ・エメリック、ピーター・ヴィンスのプロデュースでアビー・ロード・スタジオでレコーディングを始める。移籍第一弾はホワイト作の「Friends Of Mine」(1967年9月)だったがヒットせず。11月には「Care Of Cell44~独房44」もヒットせずに終わった。これが原因でブランストーンとアトキンソンが脱退してしまう。しかしCBSとの契約は継続されていたため、アージェントとホワイトは、二人が脱退する前に取りためていた素材をかき集めてアルバムを作成する。それが1968年4月にリリースされた「ODESSEY AND ORACLE」であった。このアルバムは12曲仕様だったが、6曲はアージェントがリード・ヴォーカルをとっている。ブランストーンはアージェント、ホワイトのコンビと対立し歌うのを拒否したとも言われている。このアルバムもイギリスでは不発。アメリカのCBSも発売を見合わせていたが、CBSのプロデューサーとなっていたアル・クーパーが、渡英時にこのアルバムを聴き衝撃を受け、アメリカでまず「This Will Be Our Year」を、続いて「Time Of The Season」をシングル・カット。これが全米3位の大ヒットを記録。アルバム「ODESSEY AND ORACLE」も1968年10月にリリースされた。せっかく大ヒットが出たにもかかわらず、ゾンビーズは事実上解散状態にあり、アメリカツアーは不可能であった。しかしアメリカではゾンビーズを名乗る偽グループが南部をツアーしていたという記録が残っている。

 CBSは更なる新曲を要求。アージェントとホワイトは「Imagine The Swan」をレコーディングするが不発。さらに1965年に録音していた「If It Don't Work Out」をリミックスしてリリースするがこれもヒットせずに終わった。ザ・ゾンビーズはホワイトがゾンビーズの楽曲管理会社「ネクサス」の業務に専念するために脱退。変わりにジム・ロッドフォード(b=現キンクス)、リック・パーケット(g)が加入していたが、グランディとバーケットが脱退したため、ラス・バラードとボブ・ヘンリット(いずれも元ユニット4+2)を加え、「アージェント」と名乗って活動開始。ヒットを連発しプログレの雄となるのであった。一旦は空中分解したゾンビーズだが、後にアーティスト・裏方として再結集している点は、なんともいい話である。

 日本では「I Love You」をカーナビーツが「好きさ、好きさ、好きさ」のタイトルでカバーしてヒットさせたため、1968年ごろに注目を集めたが、その頃にはすでに解散していたわけである。3曲の全米TOP10ヒットを持ちながら、時流に乗れなかったザ・ゾンビーズある意味不運なグループである。しかし優れた楽曲と、ブランストーンの透き通ったヴォーカルと中心とした見事なコーラスは時代を超えて聴くものの心をつかんで離さないのであった。

 
 メンバー   
 ロッド・アージェント ROD ARGENT (vo,key)    クリス・ホワイト Christopher White (b,vo)

1945年6月14日ハートフォードシャー、セント・アルバーンズ生まれ。本名はRodney Terence Argent。
グループの中心メンバーで、「She's Not There」「Tell Her No」などのヒット曲を手がけた。解散後は自分の名を冠した「アージェント」というグループで活躍。解散後はソロとして活動する傍ら、ロンドンで楽器店を経営した。

   1943年3月7日ハートフォードシャー、バーネット生まれ本名はChristopher Taylor White。
アージェントと同じくソングライターであり「好きさ好きさ好きさ」などを作曲。アージェントとのコンビでも数曲書いている。アージェントとは「ネクサス」という音楽出版プロダクションを立ち上げたが、次第にこちらの運営に没頭しミュージシャンを引退。その後スペインに渡りバーを経営しつつ、スペインのRCAでディレクターとなる。
 コリン・ブランストーン Colin Blunstone (vo)    ポール・アトキンソン Paul Atkinson (vo,g)
1945年6月24日ハートフォードシャー、ハートフォード生まれ。本名はColin Edward Michael Blunstone。
透き通ったヴォーカルがすばらしい。アージェントとホワイトの楽曲はブランストーンのヴォーカル抜きではその魅力は半減しただろう。解散後は保険の仕事を始めたが、やがて芸能界にカムバックしソロで活躍。アージェント&ホワイトのプロデュースでヒットを放った。
  1946年3月19日ートフォードシャー、セント・カフリー生まれ。本名はPaul Ashley Warren Atkinson。ゾンビーズの母体となるアージェントと組んだトリオに参加した古参メンバー。CBSに移籍後、1967年末に脱退。コンピューターのプログラマーに転身した後、英CBSに入社。その後、米RCAにヘッドハンティングされ、西海岸地区の重役になった。2004年4月1日に逝去。
   ヒュー・グランディーHugh Grundy (dr)    
 1945年3月6日ハンプシャー、ウィンチェスター生まれ。本名はHugh Birch Grundy。
 アトキンソンと同じく、アージェントのトリオから参加したが、ゾンビーズが発展したアージェント結成前に脱退している。一時は音楽業界を離れ、馬の貿易(!)を行っていたが、アトキンソンに誘われ、CBSのA&Rマンになり、アージェントやブランストーンを担当した。

 

 
 
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