アントニオ猪木のアントニオ・ドライバー

2002.9.23 update

 

 
 

この豪快な投げっぷりを見よ!!

 

 41年豊登に口説かれアントニオ猪木は日本プロレスのワールドリーグ戦には出場せず、東京プロレスなる団体を設立し社長兼エースとなった。旗揚げシリーズのエース外人はまだ見ぬ強豪の最右翼であったジョニー・バレンタイン。そのバレンタイン対策として猪木が使った必殺技がこのアントニオ・ドライバー(=フロントネック・チャンスリー)だった。この技はネックブリーカー・ドロップ、スウィング・バックブリーカーと並んで猪木の失われた必殺技のひとつである。猪木はこの技を使いすぎたため、腰を痛めたという人もいるほど使い手にとってもハードな技である。

 この技は元来ジャイアント・スウィングとかフロントネック・チャンスリーと呼ばれた技でフロントヘッドロックの体勢から、強力なブリッジを生かして後方に投げる技で、並外れた足腰の強さを要求される。別項にあるニック・ボックウィンクルとの違いは相手の腕を巻き込んまず、相手の首だけを巻き込んで投げている点である。そもそもフロント・ネック・チャンスリーのチャンスリー(=chancery)とは「頭をわきの下に抱え込む(込まれる)」という意味がある。ブレーンバスターの原型として知られるが、ブレーンバスターより見た目も破壊力も遙に上回っているような気がする。(日プロ時代にも使ったという説もあるが)猪木は東京プロレスの崩壊とともにこの技を封印してしまった。この辺の変わり身の早さも猪木を大成させた要因だと思う。

 

猪木は元世界王者のS・ザボーから洗礼を

 

 猪木がこの技を体得したのはいつだろうか?これは筆者の推測だが、初めて参加が許された38年のワールドリーグ戦で元世界王者のサンダー・ザボーにこの技でぶん投げられたときに、「なんて凄い技だ、畜生、俺は絶対この技をモノにするぜ!」なんて思ったのだと思う。まだまだグリーンボーイだった猪木と闘ったザボーは「ルー・テーズの若い頃のようだ」と猪木の素質を絶賛した。このときのザボーの言葉は猪木の励みになり、猪木はこの言葉を胸に刻んだに違いない。そして「もし俺がスター選手になったら、この技を使ってザボーに恩返しを・・・」と胸に誓ったのだろう。そしてエースとして超一流のジョニー・バレンタインと対峙したとき、猪木は「いまこそあの技を使う時だ!」と思ったに違いない。あまり語られることはないが、猪木はザボーから古き良きストロング・スタイルの洗礼を受けたのだ。ザボーも猪木を語る上では欠かせない恩人であろう。