阿修羅原の雪崩式ブレンバスター

2005.4.12 update

 

 

これが日本初公開の雪崩式ブレンバスター!

 

 掲示板でのリクエストにお答えして、雪崩式ブレンバスターの登場。いまでこそ「ありふれた技」になってしまったが、日本で初公開された時の衝撃は強烈であった。しかし、当時の雑誌を見てみると、さほど大きく取り上げられていないのである。当時の状況を説明しておこう。

 この技を日本で初めて決めたのは、阿修羅原であった。原はヘビー級転向を期してWWU世界ジュニア・ヘビー級選手権を返上して出発した、MSWA地区への武者修行を終えて凱旋帰国。昭和56年4月18日のスティーブ・オルソノスキーとの試合が帰国第1戦であった。国際プロレスは阿修羅を木村に続くエースに据えようとしていた。もし国際プロレスがあと3年・・・いや2年存続していたら、原は木村に代わってIWA世界王座のベルトを腰に巻いていたはずである。その原が帰国第1戦に爆発させたのがこの技であった。

しかしである。専門誌の扱いはカラーではなくモノクロ・グラビア。しかも月刊プロレスにいたってはこの技の写真は名刺大の小さいものであった。当時の国際プロレスのバリューはそんなものであった。また、テレビ東京(当時は東京12チャンネル)のレギュラー中継は打ち切りになっており、この試合が特別番組で放送されたのは、かなり後のことである。もし原の帰国があと3ヶ月早ければ、この技のインパクトを多くのファンが味わえたはずである。プロレスの時代のうねりにかき消された大技であった。この技が普及するのは、もう少し後の事になる。

 

 

オリジナルはS・アーウィン

 

健吾も挑戦したのだが・・・

 

 この技の考案者はスコット・アーウィン(スーパー・デストロイヤー)だといわれている。原も彼の技をみて、会得しようと思い立ったのかもしれない。

 さて、冒頭の文章で「この技を日本で初めて決めたのは、阿修羅原であった」と書いた。日本で初めて公開したのは原ではなかったのである。原がこの技を「決め」る前日に木村健吾が藤波とのIWGPアジアゾーン予選で、この技にトライしているのだ。一説には原の公開練習を新聞で読んで先に使ったといわれている。日本で初めて公開したのは確かに木村だが、実は藤波に体をひねられ、その下敷きになって、フォール負けを喫しているのである。会場は大いに沸いたが、いかにも木村らしいというか、トホホな初公開であった。