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ジェリーとペイスメーカーズ / GERRY AND THE PACEMAKERS 
 
   ディスコグラフィー
 
 メンバー   
 ジェリー・マースデン Gerry Marsden (g,vo)     フレディー・マースデン Freddy Marsden (dr)
生年月日:1942年9月24日
出身地:リヴァプール
本名:ジェラルド・マーズデン
父:フレッド母:メアリー兄弟:フレディー(兄)
身長:5フィート6インチ半(166p)
瞳:淡褐色
髪:ブラウン
楽器:ギター、ピアノ、ドラム
前職:イギリス鉄道局
趣味:スヌーカー、ゴルフ、水泳、切手収集
好きな歌手:レイ・チャールズ、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス
好きな俳優:エリザベス・テイラー、アンソニー・クイーン
好きなバンド:ビル・コットン
好きな作曲家:ゴフィン&キング、レノン&マッカートニー
グループのリーダーで、ヴォーカリスト。作曲家としての能力も高い。
グループ解散後は舞台俳優となった、マルチ・タレント。
  生年月日:1940年10月24日
出身地:リヴァプール
本名:フレデリック・ジョン・マーズデン
父:フレッド母:メアリー兄弟:ジェリー(弟)
身長:5フィート8インチ半(171p)
瞳:淡褐色髪:ブラウン
楽器:ドラム
前職:サラリーマン
趣味:フットボール、クリケット
好きな歌手:リトル・リチャード、ファッツ・ドミノ、ブレンダ・リー
好きな俳優:ライオネル・ジェフリーズ、フランク・シナトラ、サンドラ・ディー
好きなバンド:特になし
好きな作曲家:ゴフィン&キング
18歳の時に芸能界入り。現在は自動車教習所の教官。
 レス・チャドウィック Les Chadwick (b)    レス・マグワイア Les McGuire (dr,vo) 
生年月日:1943年5月11日
出身地:リヴァプール
本名:ジョン・レスリー・チャドウィック父:ジョン母:メイ兄弟:ジェーン(妹)
身長:5フィート11インチ半(178p)
瞳:ブルー
髪:ブラウン
楽器:ベース、ギター、ピアノ
前職:銀行員
趣味:フットボール、読書、ゴルフ、スヌーカー
好きな歌手:フレッド・マースデン、ペギー・リー、ブルック・ベントン
好きな俳優:ピーター・セラーズ、エリザベス・テーラー
好きなバンド:レイ・チャールズ楽団
好きな作曲家:レノン&マッカートニー、ミッチ・マーレー
16歳の時に芸能界入り。何曲かジェリーと共作している。
  生年月日:1941年12月27日
出身地:ウォラシー
本名:レスリー・チャールズ・マグワイア
父:チャールズ母:マーガレット
兄弟:なし
身長:6フィート(180p)
瞳:グレイブルー
髪:ブラウン
楽器:ピアノ、サックス、フルート、クラリネット
前職:音楽助手
趣味:女の子、ドライブ、機械いじり
好きな歌手:メル・トーメ、エラ・フィッツジェラルド
好きな俳優:ロバート・ミッチャム
好きなバンド:カウント・ベイシー、フォーデン・モーターワークス・ブラス・バンド
好きな作曲家:マースデン&チャドウィック、ベートーベン
レイ・チャールズとハリウッド・ボウルに出演するのが夢。


「彼らの一生はヒット曲に終始し解散した、と言っても良いだろう。」 木崎義二   

ジェリーことジェラルド・マースデンは、42年9月4日リヴァプールで生まれた。サッカー少年だった彼は成長していくにしたがってロックに興味を持ち始め、14歳のときに始めてレッド・マウンテン・ボーイズと言うスキッフル・バンドに加入した。その後フォアモストのブライアン・オハラとのデュオを経て、58年には兄のフレッド(ドラム担当、40年11月23日生まれ)とマーズバーズと言うデュオを組み、59年には友人のレス・チャドウィック(ベース担当、43年5月11日生まれ)、アーサー・マクマホン(ピアノ担当)と加えた4人でペイスメーカーズを結成した。62年にはピノがアンダーテイカーズから参加したレス・マグワイアに交代し、ジーン・ヴィンセン
トのリヴァプール公演の際にはバックバンドを勤めるまでに成長していた。

アイアン・ドア、キャバーンと行った地元のライブ・ハウスや、ハンブルグのトップ・テン・クラブ、スター・クラブなどで演奏を続け成功のチャンスを待っていたペイスメーカーズに転機が訪れたのは、後にビートルズのマネージャーになるブライアン・エプスタインとの出会いであった。定説ではレイモンド・ジョーンズと言う少年が、エプスタインが経営するレコード店にビートルズがドイツで録音した「マイ・ボニー」のレコードを注文したのが、エプスタインとビートルズを巡り合わせたきっかけであると言うことになっているが、ジェリーの回想によれば、仲がよかったポール・マッカートニーとよくエプスタインのレコード店に行ってアメリカのマイナーな
レコードを注文していたので、どうしてこんな珍しいレコードを聞くのか不思議に思ったエプスタインが二人に話し掛けてきたので、彼らはバンドをやっているので、勉強のためにこの様なレコードを聞いていると言うことを説明した。興味を持ったエプスタインは後日近所にあったキャバーンに演奏を聞きに行き、彼らが気に入ったので、まずはビートルズ、次にジェリーとペイスメーカーズと契約したと言うことのようだ。

エプスタインはペイスメーカーズを大手のコロムビア・レーベルの専属にし、ジョージ・マーティンのプロデュースで、ビートルズが蹴った高校の音楽教師ミッチ・マーレイの「恋のテクニック」で63年3月にデビューさせた。この曲は全英チャートで3週間トップにランクされる大ヒットとなった。ジェリーはこの曲を蹴った悪友ジョン・レノンに「ナンバー・ワン・ヒットを逃したな。」と電話を入れたと言う。(この時点でビートルズはナンバー・ワン・ヒットを持っていない。「プリーズ・プリーズ・ミー」はほとんどのチャートで2位どまりだった。)

6月に発売された2枚目のシングル「アイ・ライク・イット」も4週間首位を独走する大ヒットとなった。エプスタインは3枚目のシングルにレノン&マッカートニーの「ハロー・リトル・ガール」を推薦したが、それまでの2曲に似ていると言うことでジェリーは拒否し、変わりにミュージカル「回転木馬(カルーセル)」の主題歌「ユール・ネバー・ウォーク・アロン」をシングルにしたいと提案した。この曲はジェリーが大ファンだった地元のサッカーチーム、リヴァプールFCのテーマでもあった。エプスタインとマーティンはこの曲をスローすぎると言う理由で猛反対したが、ジェリーは反対を押しきって10月に3枚目のシングルとしてリリースした。オーケストラをバックに歌ったこの壮大なバラードは、エプスタインとマーティンの予想に反して4週間首位を独走する大ヒットになり、ペイスメーカーズはデビューから3曲連続でシングルがナンバー1になると言う記録を作った。

このシングルと同時期にファースト・アルバム「ハウ・ドゥ・ユー・ライク・イット」をリリースしたが、このアルバムはタイトルに反して「恋のテクニック」も「アイ・ライク・イット」の収録されていない。このアルバムは「メイビリーン」「スロー・ダウン」などのR&B、「ユアー・ザ・リーズン」「ジャンバラヤ」といったC&W、「プリテンド」「サマータイム」と言ったスタンダードなど、非常にバラエティに富んだ選曲になっていた。アルバム収録曲のほとんどがカバーで、ジェリーのオリジナル曲は「ドント・ユー・エバー」1曲だけだった。この年ジェリーとペイスメーカーズはイギリスの63年度トップ・シングル・アーティストの4位にランクされ、年間シングルチャー
トでは「恋のテクニック」が8位、「アイ・ライク・イット」が4位、、「ユール・ネバー・ウォーク・アロン」が6位にランクされるなど、一躍ショウ・ビジネス界のトップに仲間入りを果たしたのである。

64年最初のシングルに選ばれたのは、ジェリーの自作曲「アイム・ザ・ワン」だった。「アイ・ライク・イット」に似たタイプのこの曲は、サーチャーズの「ピンと針」にはばまれ、初めてナンバー・ワンを逃したシングルとなってしまった。この当時ジェリーの夢は、自作のバラードをシングルのA面としてリリースすることだったが、喧嘩別れしていた恋人のために書いた「太陽は涙が嫌い」によってこの夢はかなえられた。4月にイギリスで6位にランクされたこのバラードは、全米チャートの4位にランクされるヒットとなり、同時にアメリカ進出と言う、もう一つの夢もかなえたのであった。同名の曲を作っていたレイ・チャールズに告訴されると言うハプニングもあったが、このヒットに便乗してアメリカでは不発に終わっていた「恋のテクニック」が7月に再発売され9位まで上昇、「アイ・ライク・イット」も8月に17位にランクされるヒットとなり、アメリカでのテレビ出演やツアーの成功を収め、念願のアメリカ侵略を果たしたのだった。

ツアー中の5月にエプスタインはリヴァプールを舞台にした映画を作ることを思い付き、ジェリーに電話で「君を主役にして『マージー河のフェリー・ボート』と言うタイトルの映画を作るから、タイトル曲のほかに映画用の曲も作っておいていてくれ。」と伝えた。ジェリーは1日1曲のペースで8曲の新曲を作ったが、タイトル曲だけはなかなか考え付かず、インスピレーションを得るために実際にフェリーを見に行って考えたと言う。それでも考え付かなかったがデート中に、急にイントロのフレーズが頭に浮かび、千羽で母親に歌ったのを録音してもらって完成したと言うエピソードもある。この映画用の9曲は5月26日から29日にかけて録音された。映画はイギリスでは64年の暮れの公開された。サントラの中から「イッツ・ゴナ・ビー・オール・ライト」が9月に先行発売され24位にランクされるスマッシュ・ヒットとなった。このころジェリーは「リップ・イット・アップ」「スキニー・ミニー」「いつでも君と」「ユー・ユー・ユー」などの12曲をレコーディングした。この12曲のは65年1月にアメリカ(「アイル・ビー・ゼア!」)とカナダ(「ジェリーズ・セカンド・アルバム」)だけでアルバムとして発売された。(イギリスではシングルとEPで6曲がリリースされたが、後の6曲は未発表のままである。)「いつでも君と」はアメリカでは64年12月にシングル発売され、14位まであがるヒットとなった。ジェリーとペイスメーカーズは、この年アメリカでトップ・シングル・アーティストの16位にランクされている。

65年位は入りアメリカとイギリスで映画のタイトル曲「マージー河のフェリー・ボート」がトップ10(英8位、米6位)に入る大ヒット、アルバムも両国でトップ20ヒットになった。日本ではサントラの中から「恋は美しく」がシングル・カットされ、コレクターズ・アイテムとなっている。ちなみに映画は日本では未公開のままである。一日も早いビデオ発売を望んでやまない。

ここまでは出す曲すべてがヒットになり、順調な活動を続けてきたペイスメーカーズだったが、ジェリーがこの年の夏に結婚したためか、ニューヨークのキャピトル・スタジオで録音した「ギブ・オール・ユア・ラヴ・トゥ・ミー」が68位に低迷し、続く「ウォーク・ハンド・イン・ハンド」はイギリスでは32位にランクされたが、アメリカではB面の「ドリームス」のほうが多くオン・エアされると言う状況で、103位に顔を出すのがやっとだった。よく66年にリリースされた最初のシングル「ラ・ラ・ラ」は、アメリカではかろうじて90位にランクされたが、イギリスではノー・チャートと言う悲惨な状況で、この時期になるとジェリーとペイスメーカーズは、サイケデリックやニュー・ロックが台頭し始めていた当時の音楽界では、完全に時代遅れになっていたのである。この年の夏、事実上のラスト・シングル「ガール・オン・ア・スウィング」をリリース。この曲はイギリスを除くほとんどの欧米諸国でヒットした。アメリカのローリー・レコードにアルバム制作の依頼を受けたジェリーは、サイモン&ガーファンクルの「プレジャー・マシン」、マンフレッド・マンの「プリティ・フラミンゴ」、フランク・シナトラの「夜のストレンジャー」などを録音。このセッションで録音された曲は11月にアメリカでアルバムとして発売されたが、このアルバムにはビート・グループとしてのジェリーとペイスメーカーズの面影はもはや無かった。このアルバムはヒットにはならず、67年にエプスタインの勧めでグループは解散し、ジェリーはテレビの子供番組やミュージカルに出演するようになり、ジェリーとペイスメーカーズの短い歴史に幕を引いたのである。

ジェリーは70年代に入るとニュー・ペイスメーカーズを結成し、マジソン・スクエア・ガーデンで行われた「ブリティッシュ・インヴェイジョン・リバイバル・コンサート」に出演。85年にはブラッドフォード災害基金へのチャリティーレコードとして、ポール・マッカートニー、デニー・レイン(ムーディー・ブルース、ウィングス)、トニー・ヒックス(ホリーズ)、コリン・ブランストーン(ゾンビーズ)、ジョン・エイントウィッスル(フー)と言った豪華メンバーで録音した「ユール・ネバー・ウォーク・アロン」をリリース。これが22年ぶりに2週間ナンバー1になる大ヒットになった。89年には95人のリヴァプールFCのサポーターが死亡したヒルズボロー・サッカー場での災害の遺族への救済金を募るために「マージー河のフェリー・ボート」をチャリティー・レコードとしてリリースした。この時もポール・マッカートニーや、ジェリーが持っていたデビュー曲から3曲連続でナンバー1になったと言う記録を破った、フランキー・ゴーズ・トゥ・ハリウッドのホリー・ジョンソンなどが参加して話題となり、このシングルも3週間1位にランクされる大ヒットになった。

その後もジェリーはビクターが制作したロックン・ロールのヒストリー・ビデオで元気な姿を見せていたが、現在も何代目かのペイスメーカーズを引き連れて、ヨーロッパをツアーしていると言う。最近になってオフィシャル・ホーム・ページも開設して積極的な活動を続けるジェリーの今後に期待しよう。



 
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