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スウィンギング・ブルージーンズ / THE SWINGING BLUEJEANS 
 
   ディスコグラフィー
 
 メンバー   
 レイ・エニス REY ENNIS (g,vo)     ラルフ・エリス RALPH ELLIS (g)

1940年5月26日リバプール・フイトン出身。本名はRaymond Vincent Ennis
目の色 ブルー
髪 ダークブラウン
身長 5フィート8インチ
好きな歌手 サミー・デービス・ジュニア

 

1940年3月8日リバプール出身
目の色 グリーン
髪 ダーク・ブラウン
身長 5フィート11インチ
好きな歌手 バディ・ホリー、ペギー・リー

 レス・ブライド LES BRAID (b,key)    ノーマン・クールケ NORMAN KUHLKE (dr) 
1937年9月15日リバプール・ウエストダービー出身。
本名は William Leslie Braid
目の色 ブルー
髪 金髪
身長 6フィート2インチ
好きな歌手 レイ・ブラウン、チャック・ベリー
2005年7月31日逝去。
 

1940年6月17日リバプール出身
目の色 グリーン
髪 金髪
身長 5フィート10インチ
好きな歌手 ドリス・デイ
8歳から10歳まで南米ベネズエラに移住していた。

 テリー・シルベスター TERRY SYLVESTER (g)     マイク・グレゴリー MIKE GREGORY (b)
 1946年1月8日リバプール出身。
1966年にTHE ESCORTSから移籍。短期間在籍した後にグラハム・ナッシュの抜けたザ・ホリーズに参加している。
  1946年11月7日リバプール出身。シルベスターとともにTHE ESCORTSより移籍。


1956年ごろレイ・エニス(ヴォーカル、ギター)が中心となって結成されたグループは、当初アメリカのロカビリー歌手ジーン・ヴィンセントにあやかりTHE BLUEGENESと名乗った。彼らは1958年にリヴァプール・エンパイア劇場で行われたバング・コンテストでビートルズをおさえて優勝したが、その時、2位になったラルフ・エリス(リズム・ギター)は、エニスのヴォーカルに魅せられ、自分のグループを解散し、ブルージーンズへの加入を申し出た。1961年にはエニス、エリスにレス・ブライド(ベース)、ノーマン・クールケ(ドラム)というメンバーに落ち着いていた。この頃にはキャバーン・クラブのハウスバンドとなり、リヴァプールのトップグループとなっていた。1962年にマルチグラというクラブのオーナー、ジム・アイルランドととマネージメント契約を交わした。ブライアン・エプスタインも獲得に乗り出したというが、ビートルズやジェリーとペイスメーカーズに手一杯で充分なマネージメントをしてもらえないだろうと判断して、エプスタインの申し出は断ったという。アイルランドはまずジョー・ミークに売り込んだが、オーディションの結果は不合格であった。しかし1963年いEMI系のHMVとの契約に成功。オリジナルの「イッツ・トゥー・レイト・ナウ」でデビューしたがヒットせず、続く「ドゥ・ユー・ノウ」もほとんど注目を集めることはなかった。

 しかしこの頃、海賊ラジオ局ラジオ・ルクセンブルグのジーンズ会社が提供する「スウィンギング・タイム」という番組のホストとなり、静かな人気を獲得しつつあった。1963年の暮れにビートルズのステージを見たブルージーンズの面々は、ビートルズがレパートリーとしていたある曲に非常に心を惹かれ、これを3枚目のシングルにすることにした。それが彼らにとって最初で最後の超ビッグ・ヒットとなる「ヒッピー・ヒッピー・シェイク」であった。この曲はイギリスで2位までのぼるヒット(DC5の「グラッド・オール・オヴァー」を抜けず)となち、1964年3月にはアメリカでも24位のスマッシュヒットを記録した。この時、アメリカで絶大な影響力を持つエド・サリヴァン・ショーへの出演を依頼されるが、マネージャーはヨーロッパ・ツアーの契約が残っているという理由で、これを断ってしまう。この後、二度とサリヴァンから出演依頼が来ることはなかった。この判断ミスが彼らのアメリカでの成功を最小限のものにしてしまったといえよう。

 ブルージーンズハ4枚目のシングルに「ヒッピー〜」とほとんど同じアレンジの「グッド・ゴリー・ミス・モリー」を発売し11位のスマッシュ・ヒット(アメリカでは43位)を記録。続くシングルにはがらっと雰囲気を変えたバラードの傑作「ユーアー・ノー・グッド」をリリース。これがイギリスでは3位の大ヒットとなったが、アメリカでは93位と低迷。ブルージーンズはこのあとオリジナルの「恋の約束」、ジョニー・バーネットの「イット・イズント・ゼア」をリリースするがいずれもチャート・インせず。1965年にリリースされた「君は僕のもの」、「クレイジー・アバウト・マイ・ベイビー」もことごとく失敗し、1966年にディオンヌ・ワーウィックの「ドント・メイク・ミー・オーヴァー」はイギリスで31位と久々にヒットを記録するが、これが最後のヒットとなってしまう。このシングルが出た直後にエリスが脱退。変わりにエスコーツのテリー・シルヴェスター(後にホリーズに参加)と、マイク・グレゴリーが参加。ブライドはキーボードに転向し5人組として再スタートを切る。

 新編成になってからの第1弾シングルはロニーとデイトナズのカヴァー「サンディ」をリリース。さらにオリジナルの「サマーズ・ゴーン」、ニッカーボッカーズの「ルーモアズ・ゴシップス・ワーズ・アントゥルー」をリリースするがノーランク。この頃グレゴリーが脱退。1967年にも2枚のシングル、1968年にはコロムビアに移籍し2枚のシングルをリリースするがやはりヒットには結びつかずシルベスターが脱退しホリーズに参加。1970年代に入ると第1線を退きキャバレーやクラブをサーキットするようになった。現在でも現役でヨーロッパのクラブをサーキットしているというから凄い。



 
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